続『小倉百人一首』
あらかるた
【165】百人一首と狂歌(前)
江戸時代中期、
田沼意次が実権を握っていた宝暦から天明にかけての
いわゆる田沼時代は、平賀源内や蔦屋重三郎が
活動していた時期に当たります。
自由な気風を反映してか文芸では狂歌が流行り、
重三郎は蔦唐丸(つたのからまる)の
狂名(きょうみょう=狂歌作者としての号)を持っていました。
重三郎は喜多川歌麿を起用して狂歌絵本を何冊も出版。
その歌麿の狂名は筆綾丸(ふでのあやまる)だったそうです。
また、重三郎のもとに居候していたこともある十返舎一九は、
代表作『東海道中膝栗毛』の中で弥次郎兵衛と喜多八に
たびたび狂歌を詠ませています。
『膝栗毛』のような滑稽本以外の出版物にも狂歌を含むものがあり、
流行は寛政の改革のころまでつづきました。
この時代、百人一首関連では
『狂歌百人一首』なるものが刊行されていますが、
今回はそれ以外の狂歌集から
百人一首のもじりをいくつか選びました。
まづひらく伊勢の大輔がはつ暦 けふ九重も花のお江戸も
(万載狂歌集 春 唐衣橘洲)
唐衣橘洲(からころもきっしゅう)の初暦(はつごよみ)の歌。
初暦は暦開きともいい、伊勢神宮の御師(おし=大夫とも)が
諸国に配った新年の暦を初めて開くことです。
伊勢の大夫(たいふ)を伊勢大輔(いせのたいふ 六十一)に重ね、
大輔の「いにしへの」の歌に詠まれた九重(ここのえ=宮中)の
高貴な方々ばかりでなくお江戸の庶民も
暦を開いているというのです。
月見てもさらにかなしくなかりけり 世界の人の秋と思へば
(徳和歌後万載集 秋 頭光)
大江千里(おおえのちさと 二十三)の
「わが身ひとつの秋にはあらねど」を
「世界の人の秋と思へば」に変えたのは頭光(つぶりひかる)。
おっしゃる通りみんなのところに秋は来るのだと思えば、
一向に哀しくなどありませんでしたと。
王朝歌人の個人的感傷を笑い飛ばしているかのようですが、
狂歌のもじりは古典を世俗化、大衆化して
笑いを生み出そうとするものでした。
古典への敬意の感じられる橘洲の作風は
保守的と見なされていたそうです。
庶民感覚を詠む
吉原の遊女を詠んだと思しき
平秩東作(へづつとうさく)の狂歌は
壬生忠岑(みぶのただみね 三十)のもじりです。
そしてまたおまへいつきなさるの尻 あかつきばかりうき物はなし
(万載狂歌集 恋 平秩東作)
次はいつ来るのという言葉は猿の尻のように真っ赤なうそ。
口先だけとわかっているから別れの朝が憂いのでしょう。
忠岑は「つれなく見えし別れ」と詠んでいますが、
東作は遊女の甘い言葉は常套手段、
営業トークにすぎないと知っているのです。
いっぽうで女性狂歌師智恵内子(ちえのないし)は
こんなせつない恋を詠んでいます。
たゞひとめ見しは初瀬の山おろし それからぞつとひきし恋風
(狂言鶯蛙集 恋 智恵内子)
源俊頼(としより 七十四)の本歌は初瀬の観音に
恋の成就を祈っていたのですが、これは初恋、一目惚れです。
初瀬の颪(おろし)に吹かれて風邪をひいたかのような恋病。
「それからぞつと」の俗語が効果的です。
→後編へ続く
各狂歌の本歌については
旧バックナンバー【190】【183】【2】【266】参照