読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【166】百人一首と狂歌(後)


民衆生活に引き寄せた百人一首

江戸後期を代表する文人太田南畝(おおたなんぼ)は
四方赤良(よものあから)の名で狂歌を発表していましたが、
デビューのきっかけは平賀源内の推薦によるものでした。
天明三年の赤良編『万載狂歌集』は熱狂的に迎えられたそうです。

質蔵にかけし地赤の虫干は ながれもあへぬ紅葉なりけり
(万載狂歌集 夏 四方赤良)

質屋の虫干しの光景。質草を風に当てている中に
地赤(ぢあか=赤い地色)の、おそらく若い娘の着物がある。
質流れにならず秋を迎えるらしいが、紅葉のように華やかだと。
百人一首の春道列樹(はるみちのつらき 三十二)
「山川に」の下の句をそのまま借用しています。

さかづきを月よりさきにかたぶけて まだ酔ひながらあくる一樽
(万載狂歌集 夏 山手白人)

清原深養父(きよはらのふかやぶ 三十六)の「夏の夜は」を
本歌とする山手白人(やまのてのしろひと)の一首。
月が西に傾くより先に杯を傾け、まだ宵のうちに
もう一樽(ひとたる)を開けたというのです。
宵ながら明けたのは夏の夜だったはずですが…。


めでたき御代

評判ははげしかれとて 顔見世にみな手をうつの山おろしかな
(徳和歌後万載集 冬 山手白人)

顔見世(かおみせ)は劇場が年に一度の
俳優の入れ替えをした後に初めて行う興行のこと。
大評判となるよう願って手打ちをしたというのです。

源俊頼(としより 七十四)の初瀬を宇津の山(=東海道の難所)に
したのは「打つ」との掛詞(かけことば)にするため。
本歌の「激しかれとは祈らぬものを」を逆転させて
評判が「はげしかれ」と祈っているのがミソです。

舞台に上がる俳優自身が詠んだ狂歌もあり、
次の歌の作者は五代目市川團十郎です。

おほけなく柿の素袍におほふかな 我が立つ芝居冥加あらせ給へや
(徳和歌後万載集 冬 花道つらね)

花道つらねは團十郎の狂名(きょうみょう)。
慈円(じえん 九十五)の歌の「墨染の袖(=僧衣)」が
柿色の素袍(すほう=武士の正装)になっているのは
團十郎が役柄で着用するからでしょう。
「おほけなく」はおそれ多いことですがといった意味です。

冥加(みょうが)云々の第五句は同じ慈円の
この歌から採られています。

阿耨多羅三藐三菩提の仏たち わが立つ杣に冥加あらせたまへ
(新古今和歌集 釈教 伝教大師)

阿耨多羅三藐三菩提(あのくたらさんみゃくさんぼだい)は
最高の悟りの境地、冥加(みょうが)は神仏の加護、助力。
比叡山中堂の建立に際して、杣(そま=木材を伐り出す山)に
諸仏のご加護がありますようにという祈りの歌です。

最後に時代の空気を感じさせる一首を。
作者は元木網(もとのもくあみ)です。

あせ水をながしてならふ剣術の やくにもたゝぬ御代ぞめでたき
(徳和歌後万載集 夏 元木網)

武士をからかっているようにも思えますが、
剣術無用の世のめでたさを謳歌する
庶民の心情がうかがえる狂歌です。

各狂歌の本歌については
旧バックナンバー【273】【66】【266】【51】参照