続『小倉百人一首』
あらかるた
			【168】たそがれは占いの時
薄闇に聞く神のお告げ
  「たそがれ」は「誰そ彼」のこと、
  「かわたれ」は「彼は誰」が語源です。
  いずれも薄暗くて人の姿が見分けにくい、
  昼と夜の間(あわい)を指す言葉。
  かつてはこの時間帯に行う占いがありました。
    言霊の八十の衢に夕占問ふ 占まさに告る妹は相寄らむ
    (万葉集巻第十一 2506 よみ人知らず)
  八十(やそ)は数が多いことを示します。
  衢(ちまた)は分かれ道(=道股)、あるいは人の多い道。
  道を行き交う人の言葉を聞いて吉凶を占うのを
  道占(みちうら)、あるいは道行占(みちゆきうら)と呼び、
  それを夕方行うのが夕占(ゆうけ/ゆううら)です。
  上記の歌はまさに占いの結果、愛しい女性が
  自分に心を寄せるだろうというお告げがあったのです。
    月夜には門に出で立ち 夕占問ひ足占をそせし行かまくを欲り
    (万葉集巻第四 736 大伴宿祢家持)
  家持(やかもち 六)の歌の「行かまくを欲(ほ)り」は
  「行きたいので」という意味で、相手は恋人の
  大伴坂上大嬢(おおとものさかのうえのおおいらつめ)です。
  わざわざたそがれに占いをして神意を問うたのは、
  日が暮れるころに八十の衢(やそのちまた)に
  言霊が満ちると考えたから。
  かつては日没が一日の終りでした。
  次の日との境界には異界に通じる隙間があり、
  霊的なものがこの世にやってくると考えられていたのです。
  歌によれば家持は夕占のほかに足占(あしうら)もしています。
  足占は人の言葉でなく自分の足で占うもの。
  たとえば立ち木や石などを目標に定めて
  右足を吉、左足を凶と決めて歩き、
  到着時にどちらが着いたかで判断したようです。
恋の辻占
 江戸時代になると夕占も様相が変わってきます。
  時代劇の映画や舞台で、夕刻になるとどこからともなく
  「淡路島通う千鳥の恋の辻占(つじうら)~」という呼び声が
  聞こえてくることがありますが、
  これは江戸時代に実際にあった辻占売りです。
  夕方であることを示す演出なので、
  たいてい若い女性の声が聞こえるだけ。
  淡路島云々は百人一首にある源兼昌(かねまさ)の歌です。
    淡路島かよふ千鳥の鳴くこゑに いく夜ねざめぬ須磨の関守
    (七十八 源兼昌)
    淡路島から通ってくる千鳥の鳴き声で
    幾夜目を覚ましたことだろうか 須磨の関の番人は
  辻占売りが売っていたのは紙片に吉凶を刷った
  おみくじのようなものでした。
  爪楊枝(つまようじ)の袋に刷ったものもあったそうですが、
  紙片を板昆布に挟んだり、干菓子や巻煎餅に入れたり、
  占いはもはや遊びの領域になっていたようです。
  おみくじとの違いは縁起のよいことしか書かれていない点。
  夕占の神秘性は薄らいでいますが伝統は途絶えず、
  現在も同様の辻占菓子が(辻でなく店舗で)売られています。
