続『小倉百人一首』
あらかるた
【170】夏の日
暑さの夏
夏の日盛り、
旅人が野中の神社に入っていきます。
ひとときの涼を求め、疲れをいやそうというのでしょうか。
夏の日の野中の杜(もり)の青葉陰 遠方人の袖ぞやすらふ
(壬二集 大僧正四季百首)
この歌は藤原家隆(九十八)の家集
『壬二集(みにしゅう)』に収められています。
「遠方人(をちかたびと)」は旅人、もしくは遠くの人のこと。
あまり見かけない青葉陰(あをばかげ)という言葉が
いかにも涼しげです。
しかし百人一首五十九番歌、
赤染衛門の「やすらはで」*に用例があるように、
古語「やすらふ」には「一息入れる」のほか
「ためらう」という意味がありました。
旅人が一息入れたと解釈すると木陰の涼しさを感じますが、
木陰から出てゆくのをためらっていたと考えると、
日向(ひなた)の暑さが想像されます。
おほかたにいとひ慣れたる夏の日の 暮るゝも惜しき撫子の花
(拾遺愚草員外 四季題百首)
「大方に(=みんなが一般的に)いやがっている夏の日」と
身も蓋もない上の句を詠んだのは藤原定家(九十七)。
しかしなでしこの花を見ていると、
そんな夏の日でも暮れるのが惜しいというのです。
定家は夏の暑さをいやがっていますが、
大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ 四十九)は
暑さを客観的にとらえ、こんなふうに詠んでいます。
天つ風吹かずぞあるらし 夏の日のあづさの山に雲ものどけし
(夫木和歌抄 雑 大中臣能宣)
上空には風が吹いていないようだ。
夏の日の暑さのなか、あづさの山に雲もとどまっている。
「あづさの山」は琵琶湖東岸の梓山でしょうか。
いずれにしても「暑さ」との掛詞になっており、
暑いのは山の上の雲が動かないから、
つまり風が吹かないからだというのです。
長さの夏
おなじ夏の日でも、暑さでなく長さを厭う歌もあります。
藤原安國(やすくに)はこう詠んでいます。
逢ふとみし夢にならひて 夏の日の暮れがたきをも嘆きつるかな
(後撰和歌集 夏 藤原安國)
あなたに会う夢に慣れてしまって嘆いているけれど、
夏の日がなかなか暮れないことにも嘆いているのですと。
夢で会うことさえも遠い先のことに思えてしまうというのです。
夏の日のすがの根よりも長きをぞ 衣脱ぎ掛け暮らし侘びぬる
(好忠集)
菅(すが/すげ)の根より長い夏の日、
(暑いので)衣を脱いで(衣桁や屏風に)掛けて
なんとかやり過ごしているという
曾禰好忠(そねのよしただ 四十六)。
日の長さだけでなく徒然(つれづれ)をも嘆いているようです。
*バックナンバー【20】参照