続『小倉百人一首』
あらかるた
【171】恋の十五首(前)
水無瀬殿恋十五首歌合
大阪天王山の近く、
桂川、宇治川、木津川の合流地点にある水無瀬神宮は、
かつて後鳥羽院(ごとばのいん 九十九)の離宮
水無瀬殿(みなせどの)があったところ。
建仁二年(1202年)九月十三夜、この水無瀬殿で
院はある歌合(うたあわせ)を催しました。
九月十三夜といえば「後(のち)の月」といって
月を愛でるのが当時の慣習でしたが、
当日のお題は「月」ではなく「恋」でした。
春恋 夏恋 秋恋 冬恋 暁恋 暮恋
羇中恋 山家恋 古郷恋 旅泊恋 関路恋
海辺恋 河辺恋 寄雨恋 寄風恋
これら十五の題を見ても「寄月恋(つきによせるこい)」はなく、
十三夜に月を詠む先例を敢えて避けたのかもしれません。
この歌合は《水無瀬殿恋十五首歌合》と呼ばれます。
後鳥羽院歌壇の中心メンバーが揃っており、
名勝負が多い、秀歌の宝庫などと高く評価されていますが、
第一印象はとにかく技巧的な歌が多いという点。
序詞、掛詞、縁語、体言止め、本歌取りなど、
思いつく技(わざ)を使い尽くそうとしたかのようで、
鑑賞には手間も暇もかかります。
折しも『新古今和歌集』編纂の命が下った翌年の歌合、
歌風もいわゆる「新古今調」なのです。
新古今調の典型歌
主催者後鳥羽院はこの歌合に
左馬頭(さまのかみ)藤原親定の偽名で参加し、
数々の勝を得ています。
「海辺恋(うみべのこい)」で詠んだのはこの一首。
いかにせん思ひありそのわすれ貝 かひもなぎさに波よする袖
(水無瀬殿恋十五首歌合 海辺恋 親定)
どうしたものだろうか 今でも思いがありながら
有磯(ありそ)の渚に忘れ貝を拾ってもその甲斐なく
波が打ち寄せるかのように涙で袖が濡れるのだ
「ありそ」は「荒磯」であれば普通名詞ですが、
「有磯」だとすると富山湾西部の海岸、越中の歌枕、
大伴家持(六)ゆかりの地名になります。
「忘れ貝」は「恋忘れ貝」とも呼び、ばらばらになった
二枚貝の片方を拾うと恋を忘れられるというまじない。
「思ひあり」と「ありそ」、
「貝も渚に」と「甲斐もなき」はそれぞれ掛詞、
「ありそ」「貝」「渚」「波」は縁語です。
これだけでも複雑ですが、
この歌は次の二つの歌を思い出させます。
我も思ふ人も忘るな ありそ海のうら吹く風のやむ時もなく
(後撰和歌集 雑 均子内親王)
わたしがあなたを思うようにあなたもわたしを忘れないで
ありその海の浜辺を吹く風の止む時がないように
ありそ海の浦と頼めしなごり浪 うちよせてける忘れ貝かな
(拾遺和歌集 恋 よみ人知らず)
ありその海の(忘れないという)誓いを
信じていたのに 今やその名残もなく
余波(なごり)が忘れ貝を打ち寄せてきたよ
『拾遺和歌集』のよみ人知らずは
『後撰和歌集』の均子(ひとしきこ)内親王の本歌取りです。
内親王の歌の約束がもろくもくずれ、
忘れなさいとでも言うように貝が打ち寄せられてきたのです。
後鳥羽院の歌はその貝を拾い、
それでも忘れられないと嘆いています。
いわば二重の本歌取りであり、
三首を順に読むことによって一つの物語が完成するのです。
→後編に続く