続『小倉百人一首』
あらかるた
			【172】恋の十五首(後)
夭折の女性歌人
  《水無瀬殿恋十五首歌合》には期待の若手女性歌人、
  後鳥羽院宮内卿(ごとばのいんくないきょう)が参加していました。
  父親は源師光(みなもとのもろみつ)ですが
  本人の名、生没年はいずれも不詳。
  また活動期間も短く、『無名抄(むみょうしょう)』や
  『正徹(しょうてつ)物語』などの記述から
  二十歳前に夭折したと考えられています。
    この人(=宮内卿)はあまり歌を深く案じて病になりて
    一度は死にはづれしたりき
    父の禅門(=師光)何事も身のある上のことにてこそあれ
    かくしも病になるまでは いかに案じ給ふぞと
    諫められけれども用ゐず つひに命もなくてやみにし
    (無名抄)
    宮内卿は廿年より内になくなりしかば
    いつほどに修行も稽古もあるべきぞなれども
    名誉ありしは生得の上手にてあるゆへなり
    (正徹物語 下)
  歌に打ち込みすぎて病気になって死にそこない、
  父親に諫められても聞き入れず、ついに命を落としてしまったと。
  宮内卿は五年足らずの間に二十回ほど歌合に参加しており、
  『正徹物語』の記述に従えば、十五歳くらいで
  歌壇に登場していたことになります。
若草の宮内卿
  宮内卿は「若草の宮内卿」と呼ばれていたそうです。
  《千五百番歌合》で詠み、のちに『新古今和歌集』に採られた
  (おそらくこの)若草の歌が好評だったのでしょう。
    薄く濃き野辺のみどりの若草に あとまで見ゆる雪のむらぎえ
    (千五百番歌合 春 宮内卿)
  薄かったり濃かったりする野辺の若草の緑。
  それを見ると、雪が消えた後であっても
  雪が斑(むら)になって消えていったのがわかるというのです。
  早く雪が消えたところは若草の緑が濃い、
  なかなか消えなかったところは薄いのだと、
  なかなか鋭い観察眼、推理力です。
  歌合で大御所、大ベテランと競うことの多かった宮内卿、
  勝敗の記録がある範囲では負けが多く、
  《水無瀬殿恋十五首歌合》でも四勝九敗引き分け二つ。
  少ない勝のうち「寄風恋(風に寄する恋)」を
  詠んだのが次の一首です。
    聞くやいかにうはの空なる風だにも 松に音するならひありとは
    (水無瀬殿恋十五首歌合 寄風恋 宮内卿)
  お聞きでしょうか、うわの空の(浮気者の)風でさえ
  松を訪れて音を立てる(待っている人を訪問して声をかける)
  習慣があるということを。
  待っているのを承知で会いに来ない男に
  ちくりと皮肉を効かせた一首。
  ほんとうに二十歳前に詠んでいたのでしょうか。
  正徹の言うように「生得の上手」だったのでしょう。
