読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【177】冬の日


あっけなく暮れる冬の日

冬の日は短い。
小林一茶にこんな句があります。

日短や かせぐに追ひつく貧乏神

日短(ひみじか)は冬の季語。文字を入れ替えた
短日(たんじつ)も季語です。
「かせぐに追いつく貧乏なし」というけれど、
冬はまだせっせと働いているうちに日が暮れ、
ことわざとは裏腹、貧乏に追いつかれてしまうと。

冬の日没は関西では午後五時くらい。
夏至のころは午後七時過ぎですから、
冬の一日があっけなく終わってしまうのはそのためです。
藤原定家(九十七)の次の歌もその早さを詠んだもの。

冬の日のゆくかた急ぐ笠宿り あられ過ぐさば暮れもこそすれ
(拾遺愚草下)

「ゆくかた」は行く先、目的地。
先を急いでいるのに笠宿り(=雨宿り)しているのは
霰(あられ)が降ってきたからなのですが、
笠宿りしているうちに日が暮れてしまいそうだと、
冬ならではのせわしなさを感じさせます。

室町期の歌僧正徹(しょうてつ)もまた冬の日の短さを
詠んでいますが、こちらはなにやら意味ありげです。

冬の日は入江立ちゆく鴨の脚の そらにみじかく暮るゝころかな
(草根集 冬)

冬の日は入江から飛び立ってゆく鴨(かも)の脚のように
暮れるまでの時間が短いというのですが、この歌は荘子の
「鴨の脚は短けれども継(つ)げば憂(うれ)う」を
思い起こさせます。

鴨の脚は短いけれど継ぎ足せば不都合を生じるというのであり、
「鶴の脚は長けれども切れば傷(いた)む」とつづくのだそうです。
短いのも長いのもそれぞれ理由(わけ)があるのだから
そのままにしておくのがよいというのでしょう。
冬の日も理由あって短いのです。


冬の日も長い?

忙しい人ほど冬の日の短さを実感するのではないかと思いますが、
そうでない人、暇な人はどんなふうに感じているのでしょう。
和泉式部(五十六)にこんな歌があります。

つれづれとながめ暮らせば 冬の日も春のいくかに異ならぬかな
(玉葉和歌集 雑 和泉式部)

なすこともなく過ごす冬の一日は
(長いといわれる)春の日の幾日(いくか)と同じ。
徒然(つれづれ)の時の流れは遅いというのです。

いっぽう冬の恋を詠んだ
藤原忠通(七十六)の歌はなぞかけのよう。

冬の日を春より長くなすものは 恋ひつゝ暮らす心なりけり
(千載和歌集 恋 法性寺入道前太政大臣)

問い:冬の日を春の日より長くするものはなんでしょう。
答え:人を恋しく思いながら暮らす心です。
男女の逢瀬は夜、という時代の話です。
夜が待ち遠しい心には冬の日も長いのです。