ちょっと差がつく
『百人一首講座』
【2003年1月30日配信】[No.099]
- 【今回の歌】
- 後鳥羽院(99番) 『続後撰集』雑・1199
人もをし 人も恨(うら)めし あぢきなく
世を思ふ故(ゆゑ)に もの思ふ身は
気が付けばもう2月。
2月3日は節分です。節分は本来、立春・立夏・立秋・立冬の前日を言います。立春とは暦の上で春の兆しがはじめて感じられる日のこと。立春前の節分が1年のはじまりとして一番重要視されたため、普通「節分」と言うと、2月はじめのこの日を指します。
節分には「鬼は外!福は内」と言いながら豆まきをしますね。
これはそもそも8世紀のはじめ、文武天皇の頃に伝染病が流行ったため、中国の伝説にある「土牛」という牛の人形を作って病気を払ったのが最初だそうです。
「追儺(ついな)」といい、平安時代には宮中で弓や矛を地面に打ちつけながら、鬼を払ったそうです。絵巻物などに、鬼が逃げていく姿を描いたものがありますが、それなども追儺の儀式を描いたものでしょう。
京都では伏見稲荷や壬生寺で節分の行事が行われます。こうした行事を見に行くのもまた楽しいものです。
さて今回は、追儺ではありませんが、企てに失敗し、都を追われた長の詠んだ一首です。
現代語訳
人間がいとおしくも、また人間が恨めしくも思われる。つまらない世の中だと思うために、悩んでしまうこの私には。
ことば
- 【人もをし人も恨(うら)めし】
- 「をし」は「愛(を)し」と書き、「愛おしい」という意味になります。「恨(うら)めし」は「恨めしい」という意味です。
「も」は並列の助詞で、この2つが対照的に使われています。 - 【あぢきなく】
- 形容詞「あぢきなし」の連用形で、「面白くなく」という意味になります。
- 【世を思ふ故(ゆゑ)に】
- 「世を思ふ」は「世間・天下のことを思いわずらう」という意味です。
- 【もの思ふ身は】
- 「もの思ふ」は自分の心に沸き上がるさまざまな思いのことで、「身」は作者自身を指します。上の句に続く倒置法を使っています。
作者
後鳥羽院(ごとばいん。1180~1239)
高倉天皇の第四皇子で名前は尊成(たかひら)です。源平の戦が終わり、平氏が安徳天皇を奉じて西へ下った年に5歳で即位。翌年鎌倉幕府が成立しました。その後、19歳で位を譲り院政をしきましたが、幕府と対立し、3代将軍源実朝暗殺事件の後、承久3年に北条義時討伐に失敗(承久の変)。隠岐へ流され、19年そこで暮らして後、崩御しました。歌会に熱心で藤原定家らに新古今和歌集の編纂を命じています。
鑑賞
作者・後鳥羽院は、平安時代末期、源氏と平家の戦いが続いていた激動の時代に生まれました。戦続きで都は荒廃し、京から東国の鎌倉へ遷都が行われ、貴族の時代が終わって武士の時代が始まろうとしていました。
そもそも後鳥羽院は、滅亡した平家が西国へ逃れるおり、4歳の安徳天皇を連れていったため、即位した人です。即位の翌年、安徳天皇は壇の浦の合戦で入水しています。貴族の立場はそれほど不安定で無力になっていました。
この一首は、後鳥羽院が33歳の折りに詠んだ歌だと言われています。憂鬱さが漂う歌ですが、それは貴族社会の終わりに立ち会った院の深い実感でしょう。
後鳥羽院は、政治権力を奪われた立場にあり、また貴族社会の復権を強く望み、歌会など勢いが盛んだった時代を彷彿とさせるような催しを数多く執り行っています。
自らも非常な歌の名手で、百人一首の撰者・藤原定家らに新古今和歌集の編纂を命じるなど、構成に多くの遺産を残しました。
この歌を百人一首の99番に、100番に院の皇子・順徳院のももしきや古き軒端のしのぶにもなほあまりある昔なりけりと村上天皇時代の貴族の全盛期を懐かしむ歌を選んだ、定家の気持ちがよくわかります。
激動の歴史を100首の並びに織り込み、元主君を想いをこめた定家の百人一首の世界は、なんと広いことでしょうか。
「人も恨めし」の歌を詠んだ9年後、後鳥羽院は貴族復権を掲げて時の執権・北条義時に挑み(承久の変)、破れて島根県の隠岐島へ流されます。その地でも創作意欲は衰えず、隠岐本新古今和歌集を編纂し歌会なども開催しました。都への復帰を強く望んでいましたが、ついにかなわず19年後に島で逝去。火葬にされています。
隠岐は島根県の北の沖合に浮かぶ群島で、後鳥羽院の祀られる隠岐神社のある島前と、空港やマリンリゾートが豊富な島後に分かれます。後鳥羽院が残した豊かな文化遺産と、ダイビングも楽しめる美しい海が魅力です。島根県の境港などから汽船が出ているほか、米子や出雲、また関西の伊丹空港などから飛行機で訪れることもできます。