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をぐら歳時記

『琳派創成四〇〇年が伝える美意識』◆その二


琳派を繋いだ、京の「すい」

歴史や風土によって左右されてきた琳派の系譜。京の「すい」の文化が生み出した琳派は、永い歴史が創り出したもの。琳派は、生活に寄りそった道具に施され、その道具が使用されることで広く浸透してきたようです。一方、江戸琳派は、「いき」の文化により創出されたものです。
今回は、日本美術史を研究されている榊原吉郎先生に、その誕生の背景等についてご紹介していただきます。


時代の変遷によって評価が異なる系譜

 「琳派とは何か」という質問がよくでてきます。この問いに、美術史の研究者仲間でも明確に応えきれる人はいないのが現状です。それでは困るではないかという声が返ってきても当然だと思いますが、「琳派」については複雑にからみ合った歴史があり、事情があります。私のように「江戸琳派」は「琳派」にあらずとする立場の人や、いや「江戸琳派」も間違いなく「琳派」だという立場の人もいます。それぞれの立場に応じた理論が存在するのです。

 「琳派」は、本阿弥光悦・俵屋宗達から尾形光琳・乾山の兄弟へ、さらに中村芳中・酒井抱一を経て、神坂雪佳に至る流れがあり、これらの作家名を挙げるのが普通といえます。ところが、この作家たちの生没年となると、問題が複雑化します。光悦・光琳・乾山・抱一・雪佳については生没年が判明していますが、宗達は生没年不詳。芳中については、没年が最近になって判ってきたにすぎません。特に宗達は謎だらけで、いつ生まれて、墓所がどこであるのかも不明な程です。しかしその名前は歴史の教科書にも登場し、今日では知名度は抜群です。では、何故宗達がそのような存在になったのかという疑問が生じてきます。

 江戸時代の記録によると、宗達の作品は高く評価されていませんでした。むしろ光琳の方が有名で、着物や工芸品の装飾に「光琳波」や「光琳梅」と呼ばれる文様が使われ、大流行し、もてはやされていました。知名度は光琳が一番で、宗達の作品を持っていても羨ましがられることはなかったようです。人の好みや趣向は、時代と共に変化するもので、「琳派」の名のもとに光悦・宗達、光琳・乾山、芳中、雪佳が取り上げられるようになったのはごく最近のことで、さらに「江戸琳派」が大きく取り上げられるようになったのも、昭和五十年代後半からです。


「すい」の琳派と「いき」の江戸琳派

 夏目漱石は酒井抱一の絵が好きで、小説に抱一の作品がよく出てきます。生粋の江戸っ子であった漱石は、抱一の「夏秋草図屏風」が描き出す草花の姿に、江戸人の好みや気風の「いき」を見出していたに違いありません。抱一は「江戸琳派」の代表者で、彼の弟子たちの画風が明治の東京画壇に大きな影響を及ぼしています。横山大観・菱田春草に始まる日本美術院の画家たちは、西洋画ではない新しい日本画を求めたとき、「江戸琳派」の流れを強く意識し、宗達・光琳に手掛かりを見出そうとしたのです。

 江戸ことばの「いき」を求めていた「江戸琳派」に対して、光悦から雪佳に継承された「琳派」は、京ことばの「すい」という言葉が表す美の世界を創り出しています。この「いき」と「すい」との違いが「琳派」と「江戸琳派」を識別するキーワードになります。「いき」の領域は、「いなせ」「だて」など、活動的な外へ動き出す力を含んでいます。「すい」は、内に深く馴染むような静的な環境で育まれます。「いき」は瞬間的な場に誕生しますが、「すい」はより永い時の流れから生まれるといえます。

 「琳派」の特徴を表すのに、「私淑」ということばが使われます。光悦・宗達から光琳・乾山が現れるまでに約百年、それから芳中・抱一までに約百年、さらに雪佳まで約百年の時を隔てています。この時の流れは、師匠と弟子の関係成立を許さない要因となっています。つまり直接の指導伝授がないため、私淑として継承する以外には、道は閉ざされていたのです。「琳派」には断絶があるにもかかわらず、その断絶を超えて継承することができるのは、「琳派」には「すい」があったからだといえます。その断絶の間を繋ぐモノが「すい」であり、「琳派」は切れているようで切れない「すい」の構造を保持してきたわけです。「いき」はどこかで切れるが、「すい」は切れない。ここに「琳派」の顕著な特徴が見受けられます。

 流派としては断絶しているように見えていた「琳派」ですが、人々の間では継承されてきました。矛盾しているようですが、切れない「すい」が人々の間に広がっていたのです。それは、毎日の生活の中に「琳派」が展開されていたからなのです。「琳派」は、日常生活に用いられる道具に生きており、何気なく生活する人々の心の奥深くで、大きな領域を占めてきたのです。


文様と和歌によって市井に継承された琳派

 「琳派」は「和歌」にも深く関わっています。光悦・宗達も和歌に通じていました。和歌は、現代の歌曲と同じように声に出して歌うことが常でした。『万葉集』から『古今集』へと継承された和歌は、物語の世界まで広がり、公家も庶民と同じように歌い通じ合ってきました。『小倉百人一首』はその典型であり、『源氏物語』は歌物語として人々の生活の中に生きてきたのです。演劇である「能楽=申楽」の主題ともなり、祇園祭礼の山鉾の中にも登場しています。

 山鉾にのる人形の衣装文様に和歌があることを人々は知っていました。「琳派」は文様に利用され、文様の背後にある和歌とともに継承され、切れているように見えながら人々の心の中に受け継がれ、生き続けてきたのです。和歌は季節を巧みに利用し、人々の情感に訴えかけます。「琳派」もまた季節を常に表現し、衣服の文様も季節により取り替えられます。杜若をつけた衣裳は夏を表し、『伊勢物語』の八つ橋が心に浮かびます。このような文学と絵画の概念を超えた連想が「琳派」を支えてきた基盤であり、京の土壌で育まれた「すい」の文化なのです。

■人物紹介■
中村 芳中(なかむら ほちゅう/生年不詳~1819年)
 江戸時代後期の画家。南画から琳派へ転じ、大坂(当時)を主な活動の場とした。「たらし込み」の手法を駆使した独特の画風で、装飾的な琳派とはまた別の境地をひらいた。
横山 大観(よこやま たいかん/1868~1958年)
 日本の美術家、日本画家。近代日本画壇の巨匠であり、「朦朧体」と呼ばれる線描を抑えた独特の没線描法を確立。第一回文化勲章受章。死後、正三位勲一等旭日大綬章を追贈された。
菱田 春草(ひしだ しゅんそう/1874~1911年)
 日本画家。四点の作品が国の重要文化財に指定されている。伝統的な日本画の世界に斬新な技法を導入し、近代日本画の発展に貢献した。

琳派と小倉山荘のデザイン

 小倉山荘がブランドコンセプトとしている『小倉百人一首』には、恋の歌や移ろいゆく四季を詠んだものが多くあります。榊原先生のお話のように「琳派」と「和歌」との関わりは深く、どちらも季節をうつし取り、心の機微を表現するという共通点を持っています。花鳥風月など、身近な自然をモチーフとした文様や歌が公家や庶民の間に広まり、それが人々の心を捉えることで継承されてきたということなのでしょう。

 自然への畏敬の念は、もののあわれに通じ、人を慈しむ心を育てたとも言えるのではないでしょうか。

 小倉山荘では、琳派の手法を表現に取り入れております。夏季限定品の『水面の夢路』や『みなの川』のパッケージでも、琳派風の文様を取り入れました。今後も小倉山荘では季節の便りと共に、人と人との想いを結ぶお手伝いをしてまいります。