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をぐら歳時記

小倉百人一首をひもとく

『小倉百人一首』の撰者 藤原定家に迫る◆その四


出会いが紡いだ『小倉百人一首』

鎌倉時代初期の公家・歌人で、歌壇の指導者としても活躍した藤原定家。後鳥羽院に引き立てられるも、歌人としての自負から決別。それが幸いして『新勅撰和歌集』の撰者となるも、もどかしい気持ちが覚めぬ間に、一転、優れた歌人の秀歌を選んだ『小倉百人一首』を完成させるのです。今回は、日本古典文学を専門に研究されている小林一彦先生に、『新古今和歌集』後から晩年に至るまでの定家について、ご紹介していただきます。


万能の巨匠「後鳥羽院」と天才歌人「藤原定家」

後鳥羽院(※1)に和歌の才能を見出された藤原定家は、建仁元年(一二○一年)、和歌所の寄人(役所の職員)に、さらに『新古今和歌集』(※2)の撰者の一人へと抜擢されます。院はもとより定家ら側近の歌人たちの熱意もあって、わずか四年で『新古今和歌集』は成立しました。

歌才にめぐまれ、和歌の知識や歌会の作法にも通じていた定家は、院から重宝がられました。後鳥羽院は芸術的センスに秀で、また運動神経も抜群で蹴鞠・乗馬、さらに楽器の演奏などに通じ、どこで覚えたのか水泳も達者でした。刀剣も自ら打ったほどです。万能の才は、和歌にも発揮されました。後鳥羽院は、絶対君主としてすべてを差配しなければ気がすまない帝王でした。定家も竹を割ったような真っ直ぐな性格でしたから、ことに和歌の方面では専門歌人のプライドをかけて、院としばしば衝突しました。

単独撰だが、悔いを残した『新勅撰和歌集』

院の心中には鎌倉幕府を倒し、自ら政治の権力を掌握しようという思いがしだいに育っていました。一方、定家は将軍の源実朝(※3)を門弟にして和歌の指導を行い、また嫡男(正室の生んだ年長の男子)の正室には、幕府の有力御家人(大名)で和歌の愛好者、宇都宮頼綱(蓮生法師)(※4)の娘を迎え取ります。“機を見るに敏、時勢をよむ”、というよりは、今後は武家社会にも急速に作歌人口が増大していくと感じ、将来の和歌の普及に布石を打っていたのではないかと思われます。けれども、危うい身の処し方ではありました。承久二年(一二二○年)、定家は和歌をめぐって院の逆鱗に触れ、閉門蟄居(※5)の身となります。新古今時代を築いた帝王と臣下は、互いに仲違いしたまま、再び顔を合わせることはありませんでした。翌年に「承久の乱」(※6)がおこり、後鳥羽院が隠岐(島根県の沖に浮かぶ島)へと流されてしまったからです。処罰は院に従った側近たちにも及びました。

乱後、定家は政界に復帰します。皮肉なことに院と距離を置いていたことが幸いしました。七十一歳で高官といえる権中納言へと昇りつめ、単独で『新勅撰和歌集』(※7)の撰者となる栄誉も獲得します。ところが、完成したあとになって、前関白とその息子である摂政から、朝廷と幕府との関係への影響を考え、後鳥羽院・順徳院(※8)らの和歌は切り捨てるように言われます。和歌については一貫して主張を変えず、誰にもへつらわなかった定家でしたが、世の中に波風が立たないよう社会の平安を守るために、涙を飲んでこの要求を受け入れたのでした。大歌人の後鳥羽院の秀歌がまったく存在しない『新勅撰和歌集』など、時代を代表する歌集とはいえません。定家には達成感よりも、絶望感が強く残ったことでしょう。

妥協することなく完成させた『小倉百人一首』

『新勅撰和歌集』は、嘉禎元年(一二三五年)三月に、浄書本(清書された完成品)が御所に献上され、正式に勅撰和歌集として成立しました。ちょうどその頃、嵯峨小倉山の麓に滞在することが多かった定家に、隣家で暮らしていた宇都宮頼綱(蓮生法師)から、山荘の襖障子に貼るために、百人の優れた歌人の秀歌を色紙に書いてほしい、という依頼が舞い込みます。これが「嵯峨山庄色紙形」(小倉山荘色紙和歌)、すなわち『百人一首』の原形と考えられているものです。『百人一首』が、しばしば『小倉百人一首』と呼ばれるのはそのためです。

定家は『百人一首』には、遠慮なく後鳥羽院や順徳院の和歌を撰び入れています。『新勅撰和歌集』の成立から二か月後、同じ年の五月に、山荘の色紙和歌を染筆します。芸術家として妥協することなく、定家は百人の優れた歌人の秀歌を撰び、胸のつかえも下りたのではないでしょうか。現代に至っても広く人々に親しまれている『小倉百人一首』には、このような秘話が隠されていたのです。

ももしきや ふるき軒ばの しのぶにも なほあまりある 昔なりけり 〔小倉百人一首 第百番 順徳院〕

《用語解説》
※1 後鳥羽院(ごとばいん)
高倉天皇の第4皇子で第82代天皇(在位/1183~1198年)、後に上皇として院政(天皇3代にわたり23年間)を行う。討幕を計画し「承久の乱」を起こすが、幕府に完敗し隠岐に流される。
※2 新古今和歌集(しんこきんわかしゅう)
鎌倉時代初期に後鳥羽上皇の命で、藤原定家などによって編纂された勅撰和歌集(全20巻/約1980首)。
※3 源実朝(みなもとのさねとも)
鎌倉幕府第3代将軍。頼朝の次男で母は北条政子。和歌は、定家の指導を受ける。
※4 宇都宮頼綱(蓮生法師)(うつのみやよりつな/れんしょうほうし)
鎌倉時代前期の武将・歌人。妻は北条時政の娘。謀反の嫌疑を受けて出家し、蓮生と号す。出家後は京都に住み、藤原定家と親交を深める。
※5 閉門蟄居(へいもんちっきょ)
武士、または公家に科せられた刑罰の一つで、閉門し自宅の一室にて謹慎すること。
※6 承久の乱(じょうきゅうのらん)
承久3年(1221年)に、後鳥羽上皇が皇権回復を目的に討幕の兵を上げるが、逆に幕府軍に鎮圧された兵乱。
※7 新勅撰和歌集(しんちょくせんわかしゅう)
鎌倉時代に定家が、後堀河天皇の命を受けて完成させた勅撰和歌集の第9番目、20巻・歌数1374首の歌集。
※8 順徳院(じゅんとくいん)
後鳥羽天皇の第三皇子で、第84代天皇。承久の乱で敗れて佐渡に流される。定家とも親交があり、和歌や文学の才があった。

小倉山荘からのメッセージ

定家や後鳥羽院に限らず、人生における幸不幸は予測できないものです。また、時間が経ってみなければ、幸不幸がはっきりしないものもあります。中国の故事の一つに「人間万事塞翁が馬」というものがあります。これは、人生においては何が幸いして何が禍するかわからないものだ、という例えです。生きていれば、誰しも悩みは抱えているもの。早計に喜んだり悲しんだりするのではなく、好調な時ほど気持ちを引き締め、不調な時には諦めることなく精進していくことが大切なのだと教えられます。

誰しも幸せになりたいもの。大晦日の夜半から元日にかけて、寺院では、梵鐘が108回突かれます。さまざまな煩悩を除去し、希望に満ちた新年を迎えたいものです。私たち小倉山荘は、これからも商品を通してみなさまの暮らしに寄り添ってまいりたいと考えています。

山本雄吉