読み物

洗心言

2002年 晩秋・初冬の号


伝承の花

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伝承の花【椿】
葉に光沢があることから「艶葉木(つやはき)」、常緑ゆえに「寿葉木(すはき)」などから転じたとされる椿の名。元来春に花をつけますが、寒のうちに咲くものを寒椿や冬椿といい、冬の季語にもなっています。

自然の恩恵 共存の知恵

全国にその数二万六千余り。世界でも有数の火山国である日本は、屈指の温泉国でもあります。そしてまた、私たちの温泉好きも広く世界に名だたるところ。ある統計調査によると、日本人のすべてが一年に一度、温泉に入っている計算になるのだそうです。
人と自然とがひとつになることで生まれ出る、本当の豊かさをご紹介する「自然の恩恵 共存の知恵」。今回は、日本人の身体と心をじんわりと癒し続けてきた温泉についての話を進めてまいります。

温泉治療のはじまりは、
神話の時代。
日本最古の名湯、道後のいで湯から。

「国土開拓の神、
少彦名神の病を癒した湯」

伊予の国、松山は道後温泉。その湯につかったことがなくても夏目漱石の名作、「坊っちゃん」でお馴染みという方も多いのではないでしょうか。南国ならではの風光明媚な自然とあたたかな気候につつまれたこの名湯には、万葉の時代より多くの文人墨客が訪れ、日々の疲れを洗い流すとともに、その趣に心遊ばせたと伝えられます。

道後のいで湯はまたわが国最古の温泉としても名高く、その起源を神話の世界に訪ねることができます。大国主神(おおくにぬしのかみ)とともに国土開拓の神とされる少彦名神(すくなびこなのかみ)が重病を患っていたとき、白い鷺が湯に足をつけてケガを癒しているのを見て、自らも湯につかり健康を取り戻します。その湯こそが、現在の道後温泉だったのです。

「温熱、水圧、浮力、
化学物質による効果」

もちろん、これは言い伝えにすぎません。しかし温泉には、健康へのいくつもの効果が科学的に認められています。そのひとつは温熱効果。湯につかることで体温が上がり、血管が拡張されて血行がよくなり、新陳代謝を促します。つぎに水圧による効果。身体に一定の圧力がかかることで呼吸機能や心肺機能が高められます。浮力には関節炎や筋肉疲労などをやわらげる効果があるとされています。そして湯に溶けて含まれている化学物質による効果。これは泉質によりさまざまですが、道後温泉の場合は硫黄などを含んだ弱アルカリ性でリウマチや神経痛、痛風や胃腸病などへの効能がうたわれています。

「心と心のふれあいを、
あたたかに育む泉」

わが国では昔から津々浦々の湯の里で温泉治療、いわゆる「湯治」が行われてきました。そしていま、薬や外科的手法に頼ることなく自然治癒力を高める人間本位の健康法が次第に見直されはじめ、老若男女を問わずに温泉が人気を呼んでいるとききます。

日本人の身体をすこやかに整え続けてきた温泉。それはまた、人の和があたたかに育まれる泉でもあります。大いなる自然の懐に身をあずけ、互いに心を解きほぐすことからはじまるふれあいは、時間の流れをしばし止めるもの。心と心で響きあうひとときは、なにもかもが速足で過ぎる現代社会に生きる私たちに、またとない癒しを与えてくれることでしょう。


平安の遊・藝

「雪見」

image匂う花、満ちる月。四季のある国、日本では古来より、自然が織りなすときどきの趣を愛でる遊びが綿々と受け継がれてきました。そして白く降り積もる雪も、日本人の心を清らかに染め続けてきたのです。

『万葉集』に記された雪見の粋

奈良時代より、雪見は貴族たちにたいそう好まれ、その宴席は「雪の賀」と呼ばれていたと伝えられます。『万葉集』にも、大伴家持らと関係の深かった氏族・九米朝臣広縄の邸宅で、草花や小枝をさした雪山を眺めながらの歌会が繰り広げられたという、雅びやかな正月の記事が収められているほどです。『万葉集』にはまた、雪見を題材とした歌がいくつか採られています。

「大宮人が
心躍らせた雪山づくり」

平安の世に入ると雪見は宮廷の行事となり、雪が降れば直衣装束の貴族たちがこぞって雪山づくりに励んだといわれています。底冷えはするといえど、比較的あたたかな京に住まう大宮人にとって、そうそうお目にかかれなかった天からの贈り物は、風雅な遊びのまたとない対象だったのでしょう。

降り積もる雪に心遊ばせる平安貴族の様は、王朝文学のなかにも訪ねることができます。『枕草子』八三段にいきいきと綴られるのは、庭の雪山がいつまでその美しい姿を保つのか、中宮らと賭けに興ずる清少納言自身の姿。

また、清少納言とともに平安時代を代表する女流作家・紫式部は、雪見の折に酔いしれる酒をこよなく愛したのだとか。

「世を洗い、
あたためてくれる雪」

花や月とともに風流の代表として好まれた雪はまた、けがれを清める象徴としても尊ばれました。平安時代には雪輪紋など、雪の結晶をかたどった紋様が考案され、その意味合いは現代のきものや帯にも伝承されています。

一説によると雪は大気中のほこりを吸収、つまり空気を洗いながら降るのだそうで、雪景色が澄んで目に映るのは決して気のせいではないようです。さらに意外なことに、雪には寒さをやわらげてくれる働きがあるのだとか。

心を遊ばせるだけには終わらない、雪の白。もしかすると先人たちは、世を洗い清め、ほんのりとあたためてくれる、雪の秘められた力を知っていたのかもしれません。


百人一首逍遙

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朝ぼらけ 
有明の月と 
見るまでに
吉野の里に 降れる白雪

坂上是則

『小倉百人一首』に撰された百首のうち、季節を題材にしたものは三十二首。そのうち秋を詠んだ歌がもっとも多く十六首、ついで冬と春がそれぞれ六首、夏が四首と続きます。今回ご紹介する一首は冬の情景を詠んだもので、作者は「三十六歌仙」の一人に数えられる坂上是則(さかうのうえのこれのり)。その姓が示す通り是則は、平安初期に征夷大将軍として東北を平定した坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)の四代の孫と伝わります。

ここに歌われている吉野の里とは、奈良県南部の吉野山麓。大和権掾(やまとのごんのじょう)という役職にあった是則は、いわば公務のために大和の各地を旅することが多かったそうで、もしかするとこの歌も、吉野に赴いたときに詠んだものなのかもしれません。

その大意は

ほのぼのと夜が明けはじめるころ、明け方の月の光と見まちがえるほどに吉野の里には雪が降り積もっている。

とされています。雪の夜明け時のほの白い明るさ。山里に漂う凛とした空気感。そのどちらもが心地よく感じられ、冬の朝の光景が鮮やかに浮かんでくるような一首といえるでしょう。

さて、桜で名高い吉野は万葉の時代より、歌枕として数多くの歌に詠まれてきました。当時は吉野行幸がたびたび行われ、その際には柿本人麻呂をはじめとする歌人が同行し、技巧を競いあったのだとか。都が京に遷された平安時代にも吉野は歌人たちの「聖地」であり続け、『古今集』には吉野の情景を詠んだ歌が二十首あまり撰されているほどです。ちなみに今回ご紹介した一首も、初出は『古今集』。そこにはまた、是則のこんな歌が収められています。

み吉野の山の白雪積もるらしふるさと寒くなりまさるなり
(大意:吉野山では雪が積もっているらしい。古都の寒さはつのるばかりだ。)

同じく吉野の雪を詠んだ一首。是則は、かの地の冬にかなりの思いを抱いていたようですね。


小倉山荘 店主より

物極必反

「おごる平家は久しからず」といわれるように、人は栄華を極めるとつい有頂天になり、いたずらに欲心を抱いてしまうものです。その結果、どうなるか、改めていうまでもないと思います。

自然の行いにあらがわず、ありのままに生きる道を説いた老荘思想の教えのひとつに「物極必反(ぶっきょくひっぱん)」があります。物事が極限にまで至れば必ず反転するという意味で、誕生、繁栄、衰退、滅亡は、すべて宇宙の導きとする考えです。歴史に「もし」は禁句ですが、平家が「物極必反」に従っていれば、その後の日本史は大きく書き換えられていたかもしれません。

しかし、たとえ宇宙の導きといえど、運命にただ身を委ねるのは不本意なこと。現状をしかと見極め、未来を見据え、さらに上を目指すべきか、あるいはそこに踏みとどまるのを是とするか、全身全霊をもって意を決する心がけが大切です。結果として山を降りることになっても、それは誇るべき後退、勇気ある選択といえないでしょうか。

報恩感謝 主人 山本雄吉