洗心言
2003年 新春の号
伝承の花
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- 伝承の花【福寿草】
- 旧暦の正月ごろに、華やかな黄金色の花をつけることから、「元日草」ともいわれた福寿草。その名のごとく、幸せと長寿を招くめでたい花として、松竹梅とともに大切にされてきました。
自然の恩恵 共存の知恵
はるか彼方まで続く海原に四方を囲まれた国、日本。母なる海は、私たちに大いなる恵みをもたらす一方、試練を与え続けてきました。しかし先人たちは決して自然にあらがうことなく、あきらめることなく、自然とともに生きる力を培ってきたのです。
人と自然とがひとつになることで生まれ出る、本当の豊かさをご紹介する「自然の恩恵 共存の知恵」。今回は、鎌倉時代に築かれ、いまなお現役という防波堤についての話を進めてまいります。
波の力をありのままに受け入れる。
防波堤に息づく、
日本人の自然観。
「長さ一キロにわたって
積み重ねられた石」
いまからさかのぼること七百年余、当時幕府が置かれていた鎌倉の海岸に、ひとつの防波堤が築かれました。それは、平たい石を約十六メートルの幅、約一キロメートルの長さにわたって積み重ねたという壮大なスケールを誇りますが、鉄筋はもちろんのこと補強材の類は使われていません。
しかし、この防波堤は荒波や風雪によって老い朽ちることなく年を積み重ね、いまなお現役としてその役目を果たし続けているのです。
「波の力をありのままに
受け入れるつくり」
この防波堤は、波をありのままに受け入れるようにつくられています。波が押し寄せると積み上げられた石がその力を吸収し、分散させます。ゆえに防波堤全体にかかる圧力が弱められ、結果として末長く丈夫でいられるのです。ちなみに修繕も、今日まで一度もされていないのだそうです。近代的工法、すなわち西洋式工法で築かれる防波堤は、波を押し返すという考えからとても強固につくられます。しかしいくら頑丈でも、猛りくるう波と全力で闘い続けていれば疲労がたまり、いつかは弱ってくるものです。
「答のない問題から
勝ち得た生きる力」
鎌倉の防波堤のつくりには、日本人本来の自然観が反映されているといっても過言ではないでしょう。そもそもわが国には、自然を組み敷いて、征服するという考えはありませんでした。自然とは、自らを生かし続けてくれるもの。ゆえに畏れ、つつしみ、抵抗ではなく調和の道を求め続けてきたのです。そして厳しい自然条件のもとにおいて、日本人は自然とともに生きるための多くの知恵を生み出してきました。それらは答のない問題に挑み続け、幾多もの困難を乗り越えて身につけた、生きるための力そのものといえるでしょう。
新しい年のはじまりにあたり、先人たちの心を振り返り、豊かな明日への標となるものを少しでもお感じいただければ幸いです。そして、太平に続く海原のように、今年も佳きことが多くありますよう、心よりお祈り申し上げます。
平安の遊・藝
「貝あわせ」
「貝の美しさを競った
姫君たちの楽しみ」
左右二手にわかれ、それぞれが同じ種類の貝を出し、模様の美しさや大きさ、形などを比べあうのが貝あわせの遊び方。その際には、即興で貝にちなんだ歌を詠み、善し悪しを競いあう歌あわせも行われることが多かったのだそうです。
日本最古の短編集『堤中納言物語』に「貝合」という話が収められています。継子であるがために辛い思いをしている姫君と、正妻の姫君とが貝あわせをすることになります。それを知った蔵人の少将が、多くの美しい貝を入れた箱を継子の姫君にこっそり贈るという話です。
「貝覆い」から
「百人一首かるた」へ
平安時代後期になると、貝あわせをもとに貝覆いという遊びが誕生します。蛤の貝殻を二手にわけ、貝の地模様から一対のものを探し当てるという遊びで、こちらも姫君たちに大いにもてはやされたと伝えられます。
鎌倉時代に入ると、貝覆いは武士たちの間でも人気を博しはじめ、次第に遊び方も変わっていきます。貝殻の内側に絵図や歌を記し、絵図ならば関連のあるふたつの絵があえばよく、歌なら上の句と下の句とがつながればよいというように。
そして迎えた江戸時代、貝覆いが南蛮渡来のカルタと結ばれ、百人一首かるたが誕生します。
「世界でも希少な文学を
題材とした遊び」
かつては各家庭に必ずあった、百人一首かるた。それはあたたかな家族団らんを紡ぐものであり、子供たちが平安文学の素晴らしさを知るにまたとないものでした。文学作品が遊具の題材となっているのは、世界を見回しても珍しいことなのだそうです。
コンピュータゲームが全盛のいま、百人一首かるたにこめられた心をいまいちど振り返ってみるのは、たいへん意義のあることでしょう。そして、貝あわせや貝覆いに息づく先人たちの雅びやかな遊び心に、心をそっとあわせてみるのもまた一興といえましょう。
百人一首逍遙
田子の浦に
うちいでて見れば
白妙の
富士の高嶺に 雪はふりつつ
- 山辺赤人
山辺赤人は『万葉集』第三期(奈良時代初期)を代表する宮廷歌人で、同第二期(白鳳時代)の柿本人麻呂と並び、「歌聖」と称されました。その経歴ははっきりとはわかっていませんが、伊予温泉(現在の道後温泉)や勝鹿(かつしか)の真間(まま)(現在の千葉県市川市)を詠んだと思われる歌が残されていることから、広く各地を旅していたのではと推測されています。
今回ご紹介する歌も、駿河湾沿岸の「田子の浦」で詠んだと伝わる一首。柿本人麻呂の歌についで、『小倉百人一首』第四番目に撰された名歌です。 その大意は、
田子の浦に出て仰ぎ見ると、真っ白な富士の高嶺に雪が降り続いている。
とされています。山辺赤人は叙景歌、自然の風景を書き表す詩歌を得意としていたそうで、この一首も目の前に広がる壮大な富士山の姿が、いきいきと表わされた歌といえるでしょう。一説によると、この歌の舞台となった「田子の浦」は、現在の静岡県富士市田子の浦よりも西にある由比(ゆい)町、蒲原(かんばら)町あたりの浦といわれています。
さて、雪の富士山といえば真っ先に思い出されるのが初日の出。今年も新春の訪れを告げる光に、一年の無事と幸福を祈願したという方が多くいらっしゃることでしょう。わが国で初日の出が尊ばれるのは、五穀豊穰をもたらす太陽を崇拝した古代の民俗信仰の名残りなのだそうです。
自然を畏れ、敬う心、そして節目、節目を重んじる心に支えられ、連綿と受け継がれてきた日本ならではの慣わし。いくら世が変われど、変わることなく大切にしていきたいものですね。
小倉山荘 店主より
再び巡り来た春のよろこび
あけましておめでとうございます。皆様におかれましても輝かしい初春をお迎えのことと、心よりお慶び申し上げます。
新しい年の訪れを祝う茶事、初釜式。その茶室の床の間には、「結柳」と呼ばれる華が飾られます。長い柳を一つ輪にして結んだこの飾りは、「一陽来復」、冬が去り春が巡り来ること、転じて苦難の後には必ず幸福が訪れることを表わしているといいます。雅な風情のなかにこめられた、豊かな明日への祈り。私どもは、そんな茶人たちの心を鑑として、本年を皆様とともに、明るい光に満ちた一年にしていきたいと願っております。
最後になりましたが、旧年中は「長岡京 小倉山荘」に格別のご愛顧を賜りまして、誠にありがとうございました。これからも、私どもは心と心とを結ぶ雅のお菓子づくりに、精進を重ねてまいります。本年も変わらぬご贔屓を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
報恩感謝 主人 山本雄吉