洗心言
2005年 新春の号
伝承の花
-
- 伝承の花【節分草】
- 名の由来は節分のころ、雪解けとともに白く可憐な花を咲かせること。春の訪れを告げるように咲くことから、若さの象徴とされてきました。
自然に響く 和のこころ
新しい年が明け、暦のうえでは春まであと少しを残すころとなりました。とはいえ寒さが本格的に深まるのはこれからしばらくのことで、その間には幾日か、しんしんと雪の降り積もる日が訪れるかもしれません。
四季折々の自然に向けられた、先人の心を訪ねる「自然に響く 和のこころ」。今回は清らかな白い雪にこめられた心情を訪ねます。
「雪」に浄めを感じるこころ。
「平安貴族の心を風流に
遊ばせた白銀の美しさ」
冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず。
これは平安時代を代表する文学作品、『枕草子』の冒頭の一節です。「春はあけぼの」にはじまり、四季それぞれの趣をいきいきとした筆致で表現するなかで、作者の清少納言は冬について「早朝がいちばん美しく、なかでも雪の降り積もった趣は言うまでもない」と讚えています。『枕草子』にはこのほかにも雪にまつわるくだりがいくつも登場し、感性豊かな平安人、清少納言の雪への美意識をかいま見ることができます。また、平安貴族たちの間では雪山をつくって楽しむことがたいそう風流な遊びであったそうで、その心に思いを馳せると、雪が降るのをどれだけ楽しみにしていたかがわかります。
いや、わざわざ平安人の心を訪ねなくても、一面を覆う白銀を見たときのなんとも言えない心の高なりは、皆さまもよくご存じのことでしょう。
「世を浄め新しい時の
はじまりを告げる無垢な白」
それでは日本人は降り積もる雪を見て、いったい何を感じてきたのでしょうか。一説に、先人たちは清らかな雪に浄めと再生の喜びを見い出していたといいます。天を衝くような山を、さらには野原をすっぽりと覆い隠し、四方を果てまで無垢な白に染め上げる雪。それは世を美しく洗い浄め、すべてを一度無に戻した後で新しい時のはじまりを告げる神聖なものと考えられていたのです。
そして、やがて暖かな春が訪れて雪解けとなり、澄み切った水で川をとうとうと満たし、乾いた田をみずみずしく潤す様から雪は慈雨と同様に、大地に豊かな実りをもたらす天からの恵みと尊ばれていました。
「美しい趣の裏に息づく
人智を超えた自然の脅威」
しかしその一方で、雪は暮らしを長く冷たく閉ざし、ときに思いがけない災害をもたらすことも事実です。雪の多い地で暮らす人々は、血の滲むような努力を積み重ねることで雪とともに生きる知恵を豊かに編み出してきましたが、それでも背丈を超えるほどまでに積もる雪はいまも、暮らしにさまざまな不自由と不安を与えています。
しんしんと降り積もる雪を見るとき、美しく神聖な趣のその裏側に、人智を超えた自然の脅威が厳しく息づいていることを忘れたくないものです。そして雪解けを待ちわびる地に、一日もはやく暖かな春が訪れることを心から願うばかりです。
平安宮 春夏秋冬
「四方拝(しほうはい)」
「新しい年の災いを
祓う宮中儀式」
四方拝は元来、古代中国で行われていた儀式で、平安時代のはじめごろに日本に伝来したといわれています。四方とは陰陽道(おんようどう)の四神である青龍(せいりゅう)、白虎(びゃっこ)、朱雀(すじゃく)、玄武(げんぶ)のことで、それぞれ東西南北の方位を護る役割を果たしています。
宮中には新しい年の災いを祓い、国家の安定と五穀豊饒を祈るための儀式として取り入れられ、前年の邪気を祓う大晦日の儀式、追儺(ついな)に引き続いて執り行われました。元旦の寅の刻(午前四時ごろ)に黄櫨染(こうろせん)の御袍(ごほう)をまとった天皇が内裏の清涼殿東庭に出で、属星(ぞくしょう)(北斗七星のなかで生年にあたる星)の名を七回唱え、北に向かって天を、西に向かって地を拝し、さらに北、東、南、西の順に四方を拝した後、山陵のある方向を拝したと伝わります。
「無病息災を祈る
行事として普及」
明治時代を迎え、都が東京に遷されると四方拝は皇居で行われるようになり、先に述べたように伊勢神宮と四方の諸神を拝する行事にあらためられました。今日では皇室の私的な行事として行われています。
「現代の正月行事に
息づく四方拝」
お正月の三が日にいただくお屠蘇(とそ)のルーツは平安時代にまでさかのぼり、嵯峨天皇が四方拝の後で邪気を屠(ほふ)り、魂を蘇らせるために飲んだものがはじまりといわれています。また、初詣は、いにしえに庶民たちの間に広まった四方拝の名残りだとか。
このお正月、皆さまはどのように過ごされましたか。初詣では、どんな願いをかけられたのでしょうか。ともあれ、新しい一年が皆さまにとりまして平穏無事であり、幸多い年となりますことをお祈り申しあげます。
名歌故地探訪
『小倉百人一首』に撰された歌にゆかりの深い地をご紹介する「名歌故地探訪」。
今回は兵庫、有馬を訪ねました。
有馬山
猪名の笹原
風吹けば
いでそよ人を 忘れやはする
- 大弐三位
- 有馬山麓の猪名の笹原は風が吹くとそよそよと揺れる、そうよ、忘れたのはあなた、私がどうしてあなたを忘れたりするものですか
作者の大弐三位(だいにのさんみ)は平安時代の中ごろを生きた女流歌人。『源氏物語』の作者である紫式部の娘としても知られる人物です。この歌は、とんとご無沙汰だった男性が久しぶりに訪ねてきて、「私を愛してくれているのかどうか、気持ちがおぼつかない」といったことに対して返したと伝わる一首。自らのきまり悪さをごまかそうとした男性を責める気持ちを、技巧をこらして軽妙に表わした名歌といえるでしょう。
有馬山は現在の神戸市に位置し、山腹には愛媛の道後温泉、和歌山の白浜温泉とともに日本三大古湯に数えられる有馬温泉があります。有馬山は万葉の時代から皇族や貴族の保養地として人気を集めたといい、歌枕として多くの歌に詠まれています。猪名は現在の伊丹市から尼崎市にかけて広がる平野で、こちらも古い歌枕。有馬山と猪名は対句になり、「あなたを忘れていな(猪名)い。心変わりはありま(有馬)せん」という心情を秘めているともいわれています。
さて、大弐三位は両親をはやくに亡くし、母方の祖父に引き取られるものの、その祖父もしばらくして他界。二十歳もいかぬ年で天涯孤独の身となり、宮廷女房として生きることを迫られますが、母親ゆずりの才覚を発揮してその役割を立派にやり遂げます。当時の宮中では『源氏物語』がたいへんな人気を博しており、その作者の娘ということからも一目を置かれていたのだとか。そして若い貴族たちとつぎつぎに恋をして、後冷泉天皇(ごれいぜい)の乳母となり、順調に出世を遂げ、三十代の半ばで高級官僚の高階成章(たかしなのしげあきら)と結婚。その後幸せな生活を送り、八十歳余りの長寿をまっとうしたと伝えられます。
一説に、大弐三位はたいへん明るい人だったそうで、そんな人柄が逆境を幸福に変える大きな力になったのかもしれませんね。
小倉山荘 店主より
一陽来復(いちようらいふく)
あけましておめでとうございます。皆様におかれましては輝かしい新年をお迎えのことと心よりお慶び申し上げます。
旧年中は、私ども「長岡京 小倉山荘」に格別のご愛顧を賜り誠にありがとうございます。
表題の「一陽来復」とは元来、冬至を境に陰(いん)が窮(きわ)まり太陽の力が回復し、冬が去り春が来ることを表わす言葉です。それが転じて、悪い事が続いた後、ようやく運が向いてくることの意味にも使われるようになりました。先人達は、あまり良い事がなかった年には「いちようらいふく、いちようらいふく」と唱えて柚子湯に入り、春を待ったと言い伝えられています。
苦しい時期があれば、必ず楽しく良い時期が訪れます。常に前向きな心、自分には明るく素晴らしい未来が開けていると信念する心を忘れることなく、日々努力を重ねることの大切さを痛感させられます。
今年一年、皆様のお宅が「一陽来復」でありますように。そんな願いを込めて、私どもは雅のお菓子づくりにさらなる精進を重ねてまいります。本年も一層のご贔屓を賜りますよう、よろしくお願い申し上げます。
報恩感謝 主人 山本雄吉