読み物

洗心言

2005年 晩秋・初冬の号


伝承の色

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伝承の色
【雌黄(しおう】
東南アジア原産の、雌黄という植物から採取される顔料の色。古くから伝わる色で、奈良時代の文献に「同黄(どうおう)」という呼び名が残されています。

こころを彩る千年のことば

秋の深まりとともに、あちらこちらで草木の葉が色づきました。みずみずしい緑が、あでやかな赤や黄色に変わる様は、春や夏に力強く咲く花とはまた異なる美しさと風情を感じさせます。
珠玉の言葉を昔の歌に訪ね、折々の季節にあわせてご紹介する「こころを彩る 千年のことば」。今回は、「もみじ」という言葉にこめられた先人の思いを訪ねます。

「自然への優しい
眼差しを語るもみ」

草木の葉が赤や黄に色づく「もみつ」
もみじ(紅葉)というと、その言葉が示すとおりモミジ(カエデ)を心に思い浮かべる方が多いことでしょう。しかし、もみじは元々、草木の葉が色づくことを意味する「もみつ」に由来する言葉。ですからモミジ以外の葉が鮮やかに染まることも、もみじと表わすことができるのです。「もみつ」はまた、葉が黄に色づく様子、すなわち黄葉の意味をあわせ持ち、平安時代にはつぎの歌が詠まれています。

久方の 月の桂も 秋は猶 もみじすれば 照り優るらむ
これは三十六歌仙に数えられた名歌人、壬生忠岑(みぶのただみね)の一首で、大意は「月に生えているという桂の木も秋には黄葉するので、月はいっそうまばゆく照り輝くのだろう」。桂でなくても、たとえば銀杏の葉が黄に色づいた模様を心に思い浮かべれば、忠岑の見た月がどれほど明るかったのか容易に想像がつくでしょう。

「四季の美を愛で、
枯れゆく生命を慈しむ」

さて、秋になると草木の葉が鮮やかな赤や黄に色づくのは、世界の多くの国々で見られる自然現象です。ところが欧米では、もみじに対する思い入れがことのほか低いといわれています。その理由は一説に、かの地では春から夏にかけて盛りを迎える緑葉がもっとも良く、もみじは枯れ葉に過ぎないと考えられているからだとか。

いっぽう日本人は遥かいにしえより、みずみずしい緑と同じくらいに、もみじの美しさをこよなく愛でつづけてきました。春夏秋冬、それぞれの美を見出そうとする繊細な自然観。葉が枯れる前のしばしの輝きを慈しむ心。日本人がもみじを愛してやまないのは、この二つによるものが大きいといわれています。

「秋だけの趣を探し出し、
歌にしたため」

四季のはっきりとした国で、自然にそっと寄り添いながら生きてきた日本人。だからこそ、私たちには季節を分け隔てなく愛する感性と、自然に対する優しい眼差しが育まれたのでしょう。そして、自分の見たものや体験したこと、それらによって引き起こされた感動を他の誰かに伝えたいという思いが、「もみつ」をはじめとする様々な言葉を編み出したのかもしれません。

今年も、秋の深まりを迎えました。野や山で、川や海辺で、あるいは街のなかで、他の季節にはない秋だけの趣を探し出し、それを歌にしたためてみる。先人にならい、そんな遊びにひたってみるのも、晩秋の粋な過ごし方といえないでしょうか。


平安のしきたりに学ぶ

「平安のしきたりに学ぶ 
七五三の巻」

十一月十五日といえば、思い出すのが七五三。
三歳の男子と女子、五歳の男子、七歳の女子が色とりどりの晴れ着をまとって社寺に参り、健やかな成長を祈るこのしきたりの起源は、平安時代の宮中にありました。

「三歳で髪を伸ばし、
五歳で袴をつける」

まずは三歳のお祝いの説明から。平安時代の宮中では、赤子が誕生すると七日目に産毛をそり落とし、男女ともに丸坊主で過ごしました。三歳を迎えると、もう赤子ではないという意味から髪を伸ばしはじめる「髪置(かみおき)の儀」が執り行われました。

つぎに五歳のお祝い。現在は男子のみのお祝いですが、平安時代の宮中では、男女ともに五歳になると袴をつけ、この儀式を「着袴(ちゃっこ)の儀」といいました。これは、幼子から少年、少女への成長という節目を象徴的に表わすしきたりだったと伝えられます。

「七歳で大人と
同じ帯締めの着物に」

そして七歳のお祝い。こちらは時代が下って鎌倉時代にはじまりました。といっても当時は七歳ではなく九歳で、「帯解(おびとき)の儀」が行われました。付け紐で着ていた着物を大人と同じ帯締めの着物に変えることで、女子の成長が祝われたのです。

これら三つの儀式は元来別々の日に行われていましたが、江戸時代末期に十一月十五日(旧暦)に定められ、「帯解の儀」の年齢が七歳に下げられ、今日のように社寺に参るようになりました。十一月十五日が選ばれたのは、この日が祝い事に最吉とされる二十八宿(にじゅうはっしゅく)の鬼宿(きしゅく)にあたるため。さらにこの時節が刈り入れ時期であることから、神仏に子どもの成長と加護を祈るとともに、収穫の感謝を捧げる意味も込められていました。ちなみに七五三と名付けられたのは、明治に入ってからのことでした。

「子どもたちの
健やかな成長を祈る」

少し前までは、七五三といえば男の子は羽織袴、女の子は着物姿がほとんどでしたが、最近ではスーツやドレス姿も珍しくなくなりました。社寺へのお参りだけでなく、さまざまな催しも行われるとか。時代とともに、七五三の様子も変わってきているようですが、子どもたちの健やかな成長を祈るという気持ちだけは忘れたくないものです。


名歌故地探訪

『小倉百人一首』に撰された歌にゆかりの深い地をご紹介する「名歌故地探訪」。
今回は宮城、多賀城を訪ねました。

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契りきな 
かたみに袖を 
しぼりつつ
末の松山 浪越さじとは

清原元輔
固く約束しましたね。互いに涙に濡れた袖を絞りながら末の松山を波が越えることがないように二人の心も変わるまいと、なのに・・・。

歌に詠まれた末の松山は、海辺にあるものの決して波はかぶらないという伝説から、男女の心が変わらないたとえに用いられた陸奥の国の歌枕。はっきりとした所在地はわかっていませんが、宮城県多賀城市にあったとする説が有力です。市内には現在、末の松山と伝わる場所が残され、住宅地のなかの小高い丘に大きな松の木がそびえています。その近所には沖の石(興(おき)の井)と呼ばれる池があり、こちらも陸奥の国の歌枕として多くの歌に詠まれた名所。『小倉百人一首』の第九十二番、二条院讃岐(にじょういんのさぬき)の一首にも、その名を見つけることができます。

多賀城は、七二四年に「遠(とお)の朝廷(みかど)」と呼ばれた多賀城が築かれたところ。その城跡は現在国の特別史跡として整備され、奈良の平城宮跡、九州の太宰府跡とともに日本三大史跡に数えられています。

さて、作者の清原元輔(きよはらのもとすけ)は名歌人、清原深養父(きよはらのふかやぶ)の孫で、本人も三十六歌仙に撰された歌詠みの名手でした。大中臣能宣(おおなかとみのよしのぶ )、源順(みなもとのしたごう)、紀時文(きのときふみ)、坂上望城(さかのうえのもちき)とともに『後撰集』の編纂にも携わり、彼らの名声は「梨壺の五人」と称されました。官吏としてもさまざまな要職を歴任しますが、そちらのほうの能力はいま一つだったとか。

性格はたいへん明朗で、好奇心と才気に満ち、その人となりを受け継いだといわれるのが、娘の清少納言。一説に、元輔が清少納言を授かったのはかなり年をとってからのことで、それゆえに娘を溺愛したといわれています。いっぽう娘は父のことをたいへん尊敬していたようで、『枕草子』のなかで、父の名を辱めるので歌をつくらない、と述べているほどです。きっと、とても仲のいい親子だったのでしょうね。


小倉山荘 店主より

疾風(しっぷう)に勁草(けいそう)を知る 「後漢書」

今年も早や、木枯らしの吹く時節となりました。

表題は、「後漢書」の王覇者伝に掲載されている有名な言葉です。疾風は速く激しい風、勁草は強い草の意です。風のない穏やかな日は、強い草も弱い草も区別がつきません。しかし、激しい嵐が吹くときにはじめて、風にも吹き折れぬ強い草が見分けられるのです。

人間もまた、同じです。苦難や事変に遭遇したときはじめて、その人の意志や節操の強固さがわかります。そして、逆境のときの対処如何によってその人の真価がわかり、厳しい時代に生き残ってこそ、その強さが認識されるのです。

人間の真価は困難のなかで試されることを肝に銘じ、疾風の吹くときは、苦難は自己成長への試練と考え自身を奮い立たせて挑戦する姿勢を、同時に勁草のような強い志をもって、未来への夢と希望を決して忘れることなく、これからの人生を歩み続けたいものです。

報恩感謝 主人 山本雄吉