読み物

洗心言

2006年 仲春の号


伝統文様

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伝統文様
【唐草(からくさ)】
植物の蔓や葉などを題材にした文様で、ギリシア・ペルシアなどで古くから使われ、日本には唐から伝来。生命力の象徴として尊ばれました。

こころを彩る千年のことば

人の心の機微をほんのりと映す朧。
待ちわびた季節を迎えました。暖かな風は、凛と張りつめていた空気を心地よく解きほぐすとともに、目に見えるものすべての輪郭を柔らかにつつみ、春ならではの優しい風景を描きます。
珠玉の言葉を昔の歌に訪ね、折々の季節にあわせてご紹介する「こころを彩る 千年のことば」。今回は、「朧」という言葉にこめられた先人の思いを訪ねます。

「昼と夜とで呼び方が
異なる春のもや」

春の山並みが柔らかに見えるその訳は、大気中の湿気や微粒子にあります。地表付近の気温が高くなると、地面から水蒸気が発生します。同時に上昇気流が起こり、土ぼこりや花粉などが空に舞い上げられます。その結果、大気中の湿気と微粒子が増えてもやのようになり、輪郭がぼやけた春ならではの景観をかたちづくるのです。

ところで、春のもやは立ちこめる時間帯にしたがって、それぞれ呼び方が異なります。昼に見えるもやは「霞(かすみ)」。古くは「霧」と区別することなく使われていたようですが、平安時代以降、春のもやを「霞」、秋のもやを「霧」と呼ぶようになりました。

そして、春の月を暈(かさ)がかかったように覆う柔らかな夜のもや、それが今回ご紹介する言葉、「朧(おぼろ)」です。

「気象をあらわすだけに
終わらない朧月」

いつとても あはれと思ふを 寝ぬる夜の 月は朧げ なくなくぞ見し
これは、母親の伊勢と同じく恋多き女性とうたわれた平安時代の歌人、中務(なかつかさ)の一首。大意は「いつでもしみじみと思い出します。あなたとともに過ごした夜の月は、涙で朧に滲んでよく見えませんでした」。

この艶やかな恋歌からは、朧は単に気象をあらわすだけに終わらない、じつに情緒豊かな言葉であったことが伺えます。中務がしたためたのは、恋する歓びなのか、あるいは切ない想いなのか。ほんのりと滲む朧月は、作者のはかり知れない心模様を映し出しているかのようで、読み手の想像力をかきたててやみません。

「自然のさまざまな象を
ぼんやり覆う朧」

先人はまた、草朧(くさおぼろ)、海朧(うみおぼろ)、岩朧(いわおぼろ)、星朧(ほしおぼろ)といったように、自然のさまざまな象がぼんやりとかすむ様子を美しい言葉に仕立て、歌に詠み、そこに歓びや悲しみといった心の機微をあらわしました。目に見えるものだけでなく、どこからかかすかに聞こえてくる鐘の音を意味する鐘朧(かねおぼろ)という言葉もあります。

一日、一日と暖かくなる春の夜、窓を開け、自然のいろいろな営みに目を凝らし、耳を澄ませてみる。すると、まだ誰も知らない朧に出逢えるかもしれません。そして、それを言葉にし、心をこめて歌にしたためてみるのも一興です。


平安のまつり

四季折々、京都にはさまざまな祭があり、遥か平安時代の昔より受け継がれてきた祭事が いまも人々の暮らしのなかにとけこんでいます。
新連載の「平安のまつり」では、京都ならではの 歴史をもつ祭を季節にあわせてご紹介してまいります。

「平安のまつり やすらい祭」

「鬼たちが跳ね踊りながら町々を練り歩く奇祭」
京都のあちらこちらで桜が咲き競う、春うららかな四月の第二日曜日、紫野(むらさきの)の今宮神社や玄武神社、西賀茂の川上神社でやすらい祭が行われます。これは広隆寺の牛祭、鞍馬の火祭とともに京都三大奇祭に数えられ、国の重要無形民俗文化財にも指定されている、とても風変わりな祭です。

松や桜、椿などで飾った直径二メートルほどの赤い風流傘を持った裃姿、狩衣(かりぎぬ)姿の氏子を先頭に、小鬼、赤鬼、黒鬼が羯鼓(かっこ)や鉦(かね)、太鼓を打ち鳴らし、「花や咲きたるやすらい花や」「やあすらい、ようほい」などと囃したて、頭を振り、跳ね踊りながら町々を練り歩くというものです。

風流傘が道の脇に止まると、近所の人や見物客が入れ代わり立ち代わりその下に入ります。というのも、この傘の下に入ると来年の春まで無病息災で過ごせると信じられているからです。行列はその後神社に戻り、鬼たちがふたたび乱舞し、風流傘に宿った病を神社に封じこめます。

やすらい祭の起源は、平安時代の長保(ちょうほう)三年(一〇〇一)のこと。京の都に疫病が流行し、これを鎮めるために執り行われた祭事がそのはじまりといわれています。また一説に、春の花とともに一緒に飛び散る悪霊や疫神を封じこめようとした、奈良時代の鎮花の祭儀がルーツともされています。ちなみに「やすらい」とは、「やくばらい」からきた言葉なのだとか。

やすらい祭についてはさらに、こんな言い伝えも残されています。京都の春の祭のさきがけとして行われるやすらい祭の日が晴れれば、その年の京都の祭のすべてが晴天に恵まれる、と。真偽のほどはわかりませんが、この言い伝えはやすらい祭がそれだけ京都の人に愛され、大切にされている証しといえるでしょう。

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名歌故地探訪

『小倉百人一首』に撰された歌にゆかりの深い地をご紹介する「名歌故地探訪」。
今回は奈良、大峯山を訪ねました。

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もろともに 
あはれと思へ 
山桜
花よりほかに 知る人もなし

前大僧正行尊
私が懐かしく思うのと同じく、私を思ってくれ、山桜よ。こんな山奥にいる今、花であるお前以外に私は知る人もいないのだ。

大峯山(おおみねさん)は一つの山の名ではなく、奈良県の吉野から和歌山県の熊野へと約五十キロメートルに渡って連なる山系のこと。千メートル級の山が数十座もあり、近畿最高峰の八経ヶ岳(はっきょうがたけ)(標高一九一五メートル)や、霊峰としてつとに名高い山上ヶ岳(さんじょうがたけ)(同一七一九メートル)がひっそりとそびえます。

山上ヶ岳一帯は金峯山(きんぶせん)ともいわれ、白鳳年間(七世紀後半)に役行者(えんのぎょうじゃ)が一千日の苦行の末、修験道(しゅげんどう)の主尊を感得したことからその聖地として発展。平安時代に宇多法皇や藤原道長など皇族や貴族による金峯山詣が流行し、鎌倉時代には後醍醐天皇が南朝を営むに至りました。

現在も、山上ヶ岳の山頂には修験道の根本道場である大峯山寺があり、山全体が霊場とされています。二〇〇四年には、大峯山寺や山系内の霊場を結ぶ参詣道の大峯奥駆道(おおみねおくがけのみち)が世界遺産に登録されました。

作者の前大僧正行尊(さきのだいそうじょうぎょうそん)は十歳で父の参議源基平(さんぎみなもとのもとひら)を亡くし、十二歳で近江の園城寺(おんじょうじ)で出家。頼豪阿闍梨(らいごうあじゃり)に師事し、密教を学んだ後、十七歳から諸国をまわり、厳しい修行を重ねたと伝わる人物です。

この歌は、大峯山系での修行の最中に詠んだという一首。自分以外、誰もいない険しい山奥で思いがけず見つけた山桜。その佇まいを人に見立て、出逢いの歓びを互いに分かちあおうとする孤独な思いが如実に表わされています。

修行を終え、山を降りた行尊は尊崇を集める存在になっていました。嘉承二年(一一〇七)には鳥羽天皇の即位とともに、その身体護持のために祈祷を行う護持僧となります。以来、祈祷によって歴代天皇や白河院などの病気を治癒したり、もののけ退治を行うなど、「験力無双(げんりきむそう)」の高僧として朝廷の寵愛を受けたといわれています。


小倉山荘 店主より

お金では決して買えないもの

私ども小倉山荘の使命は、心をつなぐ贈り物として喜ばれるお菓子づくりにあります。感謝の心、祝う心、敬う心、ねぎらう心。誰かを想う一途な気持ちをお菓子を通して伝えることが、私どもの生業の原点であり、永遠のテーマです。

もちろん、お客様にはお金を出してお菓子を買っていただいております。しかし、私どもは「心のこもった品」を贈り贈られたときに、互いの胸にこみ上げる喜びや感動は、何事にも変えがたいものと信じております。

そして、お金では決して買えないものをお届けするために、少しでもお客様の心に近づこうと努力をし、美味しいお菓子づくりに日々、精進致しております。

お金で買えないものなどこの世に無い、そんな風潮が幅を利かせ、日本人が大切にしてきた思いやりや優しさがないがしろにされがちな昨今、自己満足かもしれませんが、私どもは自分たちの使命にどこまでも忠実に、生業に取り組んでまいります。

報恩感謝 主人 山本雄吉