読み物

洗心言

2008年 新春の号


伝統文様

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伝統文様【椿】
春を待ちわびる人の心がその名に表わされた椿。厳寒に耐え、深紅の花を咲かせる椿は古来より、神意を宿す木として崇められてきました。

こころを彩る千年のことば

新しい年が明けました。初春の訪れを告げる光景と言えば、きらめく雪を思い浮かべる方が多いのではないでしょうか。空から舞い降り、大地を白く染める雪は、新しい年のはじまりにときめく心をいっそう弾ませてくれます。
珠玉の言葉を昔の歌に訪ね、折々の季節にあわせてご紹介する「こころを彩る 千年のことば」。今回は、「雪」という言葉にこめられた先人の思いを訪ねます。

「吉兆として
受け継がれてきた雪。」

新しき 年のはじめの 初春の 今日ふる雪の いや重(し)け吉事(よごと)
これは四千五百あまりの歌を集めた『万葉集』の最後を飾る、大伴家持(おおとものやかもち)の名歌。天平三年(七三一)の正月元日の賀宴で詠まれたものと伝わり、その大意は「初春の今日、降り積もる雪のように、佳きことがどんどん重なり合ってくれ」。

『万葉集』にはまた、つぎの歌が残されています。
新しき 年のはじめに 豊の年 しるすとならし 雪のふれるは
こちらは家持の歌から遅れること十五年、天平十八年(七四六)の同じく正月元日に詠まれた葛井連諸会(ふ じいのむらじもろあい)の一首。新年の初に降る大雪を、豊年の前触れにちがいないと願い喜ぶ気持ちがいきいきとうたわれています。

「初春の雪は豊年の訪れを
知らせた貢ぎ物」

これら二つの歌から伺えるように、いにしえの日本では、初春に降る雪はたいへん縁起の良いものとされていました。初春の雪は、土地の精霊が豊年を知らせるために降らせる貢ぎ物と信じられていたためです。

「雪」の語源は一説に、「神聖であること」を意味する「ゆ(齋)」と「潔白(きよき)」の「き」の二つが融合したものといわれ、このことからも、先人が雪を神聖なものとみなしていたことがわかります。

時代が下って平安時代になると、雪は六角形の結晶をもつことから「六花(むつのはな)」とも呼ばれるようになりました。雪の結晶はふつう、顕微鏡でないと見ることができないほど微細なもの。にもかかわらず、美しい意匠を見い出した平安人の眼力には、雪への並々ならぬ関心と深い愛情が感じられます。

「白い野山に緑萌えるまで
もう少しの辛抱」

しかし、いくら雪が縁起よく、趣き深いといっても、それはときに暮らしを冷たく閉ざしてしまうもの。雪が多く降るところに暮らす人の、一日も早い春の訪れを願う心に、今も昔も変わりはないでしょう。

冬ながら 空より花の 散りくるは 雲のあなたは 春にやあるらむ
雪を桜の散るのに見立て、暖かな春の訪れを待つ心を詠んだ清原深養父(きよはらのふかやぶ)の一首。白い野山が緑に移ろい、色とりどりの花が咲く季節の到来まで、あともう少しの辛抱です。


平安京 今昔めぐり

「平安京今昔めぐり 
北野天満宮」

京都随一の梅の見どころとして知られる天神さん。
悲劇の才人、菅原道真公をまつった古社は学問の神様としても名高く、 初春の境内は合格を願う受験生たちで賑わいます。
千二百年の歴史遺産をめぐる「平安京今昔めぐり」。
今回は、謎めいた伝説を受け継ぐ「北野天満宮」をご紹介します。

「初春に馥郁と梅薫る、
道真公ゆかりの古社」

北野は京都市の北西、今出川(いまでがわ)通りと西大路通りが交差するあたりの地名。平安京の北に位置することから北野と呼ばれるようになり、一帯はかつて、天皇の狩猟地であったといわれています。北野天満宮の造営は、天暦(てんりゃく)元年(九四七)のこと。その誕生には祭神、菅原道真公にまつわるつぎの秘話が伝えられています。

造営からさかのぼること数十年の昔、道真は宇多天皇の寵愛を受け、右大臣にまで昇りつめました。ところが時の朝廷は藤原氏の全盛時代。一族以外の出世をこころよく思わなかった左大臣、藤原時平(ふじわらのときひら)の陰謀により道真は九州の太宰府に左遷され、延喜(えんぎ)三年(九〇三)、失意のうちに生涯を終えます。すると平安京に落雷などの災害が続き、それらが道真の祟りだとする噂が広まります。そこで朝廷は道真の霊をなだめるために、社殿を造営したという伝説です。

北野天満宮は古くから梅林で有名ですが、これは道真の自宅の庭の梅が主を追って一晩のうちに太宰府に飛来したという、「飛梅(とびうめ)伝説」にちなむもの。現在、広大な社域には二千本もの梅の木が茂り、道真の命日である二月二十五日には梅花祭が行なわれ、境内は馥郁(ふくいく)と薫る梅を愛でにやってきた多くの人で賑わいます。毎月二十五日には「天神さん」の呼び名で親しまれている縁日が開かれ、境内周辺には高価な骨董品から日用雑貨品まで、さまざまな露店がところ狭しと立ち並びます。なかでも一月の「初天神」、十二月の「終(しま)い天神」では、ひときわ大きな賑わいを楽しむことができます。

才人、道真をまつることから北野天満宮は学問の神様として厚い信仰を集め、奉納所には合格を祈願する鈴なりの絵馬がかけられています。梅から桜へ、受験生諸君に一日も早く、暖かな春が訪れることを祈るばかりです。

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【桃山建築を代表する本殿(国宝)は、
豊臣秀吉の遺志により造営されたもの】


百人一首 折々の歌

歌を通して季節をたどる「百人一首 折々の歌」。
今回は新春の趣きを詠んだ光孝天皇の名歌をご紹介します。

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君がため 
春の野に出でて 
若菜つむ
わが衣手に 雪は降りつつ

光孝天皇
あなたにさしあげようと、早春の野辺におりて若菜を摘むわたくしの袖に、雪がしきりに降りかかることです。

新しい春の訪れを祝うかのように萌える緑。あたりを真っ白に染める淡雪。二つの色が織りなす光景を、あたかも一枚の絵のように美しくうたいあげた光孝(こうこう)天皇の第十五番。歌が詠まれた背景を記した『古今集』の詞書(ことばがき)には、光孝天皇として即位する前の時康親王(ときやすしんのう)と呼ばれていた頃、ある人へ若菜とともに贈った歌と書かれています。

若菜は、こんにちも正月七日に七草がゆにして食すセリやナズナ、ハコベラ、スズシロなどのいわゆる「春の七草」のこと。七草がゆはその年の邪気を払うために平安時代から食されていたもので、新春を迎えるとあちこちの野原では、楽しみながら若菜を摘む老若男女の姿が見られたといいます。

身分の高い親王が、雪の降りしきる野原で自ら若菜摘みに興じたのかどうかは知る由もありません。しかしこの歌を味わうほど、大切な人に若菜を贈ろうとする詠み人の暖かい思いやりが、千年の時空を超えて私たちの心にじんわりと伝わってくるようです。

九世紀(八三〇~八八七)を生きた光孝天皇は第五十八代の天皇。仁明(にんみょう)天皇の第三皇子として生まれた天皇は幼いころから学問や諸芸に優れ、性格もたいへん謙虚で温厚な人物だったといわれています。そのためか野心に乏しく、陽成(ようぜい)天皇の後を受けて即位したのはかなり遅めの五十五歳のときでした。即位後も政治への関心は薄く、政務のほとんどをいとこの藤原基経(ふじわらのもとつね)にまかせ、これが関白政治のはじまりとなりました。

一説によると天皇は即位後も自炊をしたといい、『徒然草』には御所の清涼殿に専用の炊事場を設けたという話しが登場します。その庶民的な人柄からすると、雪の降る野に出て若菜摘みをしたのは、案外本人だったのかもしれませんね。


小倉山荘 店主より

考え方お転換で世界が変わる

山道に咲く一輪の花。美しい花だと感動する人もいれば、ただそこに存在しているだけと通り過ぎる人もいるでしょう。見る人の心によって、花そのものの価値が変わってしまうというのは不思議です。

お釈迦様は「一切の苦の因は我より生るると知るとき、世界の意味が変わる。世界は元のままでも考え方の転換によって、我を強く深く生かし、直す力となる」(仏説遺教経)と説かれています。

要は、人間は心の持ち方によって世界がどのようにも変わってしまうということなのですね。仕事でも、人生でも、心の持ち方ひとつでいかようにも変えることができることを思い、新しい年に挑戦して参りたいと思います。

最後になりましたが、平成二十年が皆様におかれまして輝かしい一年でありますよう心よりお祈り申し上げますとともに、本年も一層のご贔屓を賜りますようよろしくお願い申し上げます。

報恩感謝 主人 山本雄吉