読み物

洗心言

2008年 初夏の号


折々の花

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折々の花【杜若】
葵祭の時期に見ごろを迎える青紫の花。花の汁で布を染めたことから「書き付け花」といわれ、それが訛って杜若(かきつばた)と呼ばれるようになりました。

時を超える言の葉

日本の歴史を振り返ると、それぞれの時代に、それぞれの分野で偉業をなした先人たちの至言に出会うことができます。それらは、数百年、千年の時を経たいまも私たちの心に響き、熱く、深く染みわたります。
「時を超える言の葉」。今回は平安時代を代表する名歌人、紀貫之の珠玉の言の葉をご紹介します。

「月の影は同じこと」紀貫之

『小倉百人一首』第三十五番の作者であり、『古今集』の編纂者としても名高い紀貫之(きのつらゆき)は、日本独自の国風(こくふう)文化の開花に大きく寄与したことでもその名を知られています。平安時代の中ごろまでの日本は、中国から来た唐風(からふう)文化の影響下にあり、朝廷の公式文書はもちろん、日記や文学作品なども難解な漢文で書くのが主流でした。

そのようななかで、貫之は易しいかな文字の使用を提唱。それにより、漢文の教養がなくても日本語による自由な表現が可能になり、その結果として和歌が隆盛し、『源氏物語』や『徒然草』などの優れた文学作品も相次いで誕生したのです。冒頭にご紹介した言の葉は、貫之がかな文字でしたためた日本最古の紀行文学、『土佐日記』の一文です。

土佐での滞在を終え、都へ帰ろうとしていた貫之たち。ところが悪天候のため、数日のあいだ船を出せずにいました。そんなある日、海から昇ってきた月を見て、貫之はつぎのように言いました。「そのむかし、遣唐使として唐に渡った安倍仲麿(あべのなかまろ)が日本に帰るときに、唐の人との別れを惜しんでこの歌を詠んだ。『天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも(大空をはるかに見渡すと美しい月が出ている。あれは我がふるさと、春日の三笠の山に昇ったのと同じ月なのだなあ)』。唐の人たちにはどんな意味かわかるまいと思ったものの、日本語のできる人に意味を伝えたところ、たいへん良い歌だと誉められたそうだ。唐と日本は言葉はちがえど、月の影は同じこと。人の心もきっと同じなのだろう」。

日本独自の国風文化。しかし、それは決して唐風文化の否定ではなく、日本の自然風土に磨かれた感性で唐の文化を見つめ直し、その精髄を自分たちの情緒にあわせて日本風に置き換えたものだといわれています。

そこには、唐の人への友愛の気持ちとともに、なによりも尊敬の念があったことでしょう。また、仲麿の逸話が示すように、彼の地の人の心にも、互いに分かりあおうとする気持ちがあったことでしょう。

ふたつの国のあいだで、何かと波風の立つことが多い今日、この頃。「月の影は同じこと」という言の葉に託された意味を、あらためて噛みしめたいものです。


平安京 今昔めぐり

「平安京今昔めぐり 
六波羅蜜寺」

緑なす東山の峰々と清らかな鴨川の流れのあいだ、花街、祇園の南側に広がる街並に堂々とたたずむ六波羅蜜寺。
昔ながらの町家が甍をつらねるこのあたりは、かつて平家一門の豪勢な邸宅街、平氏六波羅第があったことでも歴史にその名を刻んでいます。

「空也上人の祈りを
受け継ぐ千年の古寺」

ときは平安時代中ごろの天暦(てんりゃく)五年(九五一)。京で大流行した疫病をしずめようと、空也(くうや)という僧がみずから彫った十一面観音像を車に乗せて都中を歩き回り、多くの病人を救ったことが六波羅蜜寺(ろくはらみつじ)のはじまりといわれています。

空也の没後、寺は弟子の中信(ちゅうしん)に受け継がれて規模を拡大。そして平安時代の末期に、武将の平忠盛(たいらのただもり)が境内に軍勢を構えたことから、平家との縁が結ばれます。その平家が権勢をふるうにしたがい寺の力も大きくなり、清盛(きよもり)が頭となった一族の全盛期には広大な寺域に五千二百もの御殿が軒を連ね、それらは平氏六波羅第(へいしろくはらてい)と呼ばれたことが『平家物語』に記されています。ところが「おごる平家は久しからず」の言葉どおり、平家が都落ちするや、寺は本堂を残して焼け落ちてしまいます。

時代は変わり鎌倉の世を迎えると、寺は源頼朝(みなもとのよりとも)によって再興されます。その後も幾度か戦火に見舞われるものの、寺は足利義詮(あしかがよしあきら)や豊臣秀吉といった時の権力者によってその都度修復され、さらに昭和の解体修理を経て、本堂はこんにちも壮麗な姿を誇り続けています。その本堂には、空也の手によるものと伝わる本尊の十一面観音像(国宝)が安置されていますが、それは十二年に一度、辰年の一時期だけ開帳される秘仏です。

ところで、六波羅蜜寺の宝物として本尊よりも有名なのが、開創の祖である空也上人の立像。首から鉦(かね)を下げ、右手には鉦をつく撞木(しゅもく)、左手には鹿の角でできた杖を持ち、口から六体の阿弥陀仏を吐き出す姿をご存知の方も多いことでしょう。これは疫病をしずめるために、念仏をとなえながら歩き回った空也のさまを表わしたものといわれています。重要文化財に指定された上人像は、境内に設けられた宝物収蔵庫で一般公開されています。

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空也上人が口から吐き出す六体の阿弥陀仏は
「南無阿弥陀仏」の六文字を表わしたもの


百人一首 永久の恋歌

平安人の恋のかたちに心を寄せる「百人一首 永久の恋歌」。
今回は、左京大夫道雅の名歌をご紹介します。

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今はただ 
思ひ絶えなむ 
とばかりを
人づてならで いふよしもがな

左京大夫道雅
今となっては、ただ「あきらめよう」という言葉だけを人づてに伝えてもらうのではなく、直接会ってあの人に伝えたい。そういう方法はないものだろうか

叶わぬ恋に身を切られるような思いをするのは、女性も男性も同じ。そんなことをひしと感じさせる左京大夫道雅(さきょうのだいぶみちまさ)の第六十三番。歌に詠まれたあの人とは、三条院の皇女の当子内親王(とうしないしんのう)で、その出会いは道雅が二十四歳、内親王が十七歳のときでした。すぐさま恋に落ち、互いに強くひかれあう若いふたり。しかし、それは禁断の愛のはじまりでした。なぜなら内親王は、かつて伊勢神宮の斎宮(さいぐう)をつとめた女性。神に仕えた者は、その任を終えた身でも男性と恋愛関係を結ぶことが許されなかったためです。また、道雅の家はすでに没落しており、ふたりの身分の差も大きな問題だったのです。

道雅が内親王のもとに密かに通い続けているという事実を知るやいなや、父親の三条院は怒りをあらわにし、内親王を皇后のもとにあずけ、見張りまでつけてふたりを会わせないように仕向けました。愛する人と逢瀬を重ねる望みを断たれ、さらには三条院の逆鱗にふれてしまった道雅。内親王に一目会いたい、あきらめるにせよ、みずから別れのことばを告げたいと、切実な心中を三十一文字につづったのがこの恋歌です。

しかし、道雅の願いもむなしく、ふたりの出会いが二度と許されることはありませんでした。その後、道雅の心はすさみにすさみ、「荒三位(あらさんみ)」と呼ばれるほど素行が悪くなってしまいます。内親王も別れの辛さに苦しみ続け、最後にはみずから髪を切り、仏門に入ったと伝えられます。

ところで、道雅はあまり優れた歌人ではなかったものの、内親王に関する歌に限ってはこの一首を含め、秀逸なものを多数残したといいます。それはきっと、熱烈な恋の力の成せるわざだったのでしょう。


小倉山荘 店主より

「感動」

最近、感動することが少なくなったという人がいます。年がいもなく感動するのは恥ずかしい、という人もいます。

しかし、感動とはなにも特別なことではなく、まして大げさなものでもありません。何かを見て、聞いて、触れて、あるいは人と会って、話して感じること。その大きさや種類に関係なく、毎日の暮らしのなかで得る、すべての心の動きが感動に値するといえないでしょうか。

心を閉ざしてしまわない限り、私たちはどんなことにも心を動かされるものです。たとえば木々の奏でる音、誰かの何気ないひとこと。どんな些細なことにも、人は知らない間に感動しているのです。だから感動が多いからと、その人生がけっして特別なわけではありません。その反対にありふれているようでも、その生き様にはきっと、数えきれないほどの感動が満ちあふれていると思います。

報恩感謝 主人 山本雄吉