読み物

洗心言

2008年 盛夏の号


折々の花

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折々の花【夕顔】
夕方に開き、翌朝にはしぼんでしまう白い夏の花。『源氏物語』に登場する同名の女性は、その可憐な美貌と健気な性格で、光源氏を虜にします。

時を超える言の葉

日本の歴史を振り返ると、それぞれの時代に、それぞれの分野で偉業をなした先人たちの至言に出会うことができます。それらは、数百年、千年の時を経たいまも私たちの心に響き、熱く、深く染みわたります。
「時を超える言の葉」。今回は茶の湯の祖として日本史に燦然と輝く、千利休の珠玉の言の葉をご紹介します。

「夏は涼しく、
冬は暖かに」千利休

茶の湯を大成し、清澄かつ閑寂な趣きを意味する「わび、さび」を芸術の域にまで高めた千利休(せんのりきゅう)。その利休は茶の湯の極意を、「利休七則(りきゅうしちそく)」と呼ばれる七つの心得にまとめています。

一「茶は服のよきように」―茶を心をこめて美味しく点てよ。二「炭は湯の沸くように」―形式だけではなく本質を見極めよ。ひとつ飛ばして四「花は野にあるように」―いのちを尊べ。五「刻限は早めに」―心にゆとりをもて。六「降らずとも雨の用意」―どんな時も落ち着いて行動できるようにせよ。七「相客に心せよ」―客同士がお互いを尊重せよ。

冒頭にご紹介した言の葉は三番目の心得であり、そこには季節感を大切にせよ、という意味が込められています。

茶の湯とは主人が客人を招き、一服の茶を点ててもてなす行為であり、それは四季を通じて行われました。そのために、主人は春夏秋冬それぞれの季節に応じて庭や茶室をしつらえる必要があったのです。とりわけ夏の暑い時期には涼しさを、冬の寒い時期には暖かさを客人に感じてもらうことが大切でした。たとえば夏であれば、湯を沸かす炉を風炉に変えたり、床の間に涼感を感じさせる絵をかけたり、庭にたっぷりと打ち水をしたり、羊羹などの冷たい菓子を出したり。このように季節にあわせた工夫を施すことで、客人の心に自然と涼感がわき起こるような、いわば人の五感に訴えるもてなしをするよう教えたのが「夏は涼しく、冬は暖かに」という言の葉なのです。

今年も、暑い夏がやってきました。ところが利休の生きた時代とはちがい、現代はエアコンという文明の利器のおかげで、部屋のしつらいなどに気を使わなくとも夏を涼しく過ごすことができます。しかしその反面、季節感に疎くなっているのも事実。そしてなにより、私たちがエアコンで涼しい夏を享受している分、地球環境に大きな負担を強いていることをけっして忘れてはなりません。

この夏は利休の教えを思い出し、エアコンに頼ることなく自分なりに工夫を施して、夏を涼しく過ごしてみるのも一興です。


平安京 今昔めぐり

「平安京今昔めぐり 
六道珍皇寺」

八月七日から十日まで、六道珍皇寺で繰り広げられる六道まいり。
これはお盆に帰ってくる先祖の霊を迎え入れる行事で、平安時代のいにしえから続くもの。
期間中、六道珍皇寺の境内には精霊をこの世に呼び戻す、迎え鐘の音が鳴り響きます。

「この世と冥界とを結ぶ、
六道の辻の寺」

東山通りの西、建仁寺(けんにんじ)の南側にたたずむ六道珍皇寺(ろくどうちんのうじ)の創建は延暦(えんりゃく)年間(七八二~八〇五)。空海の師、慶俊僧都(けいしゅんそうず)が開いた珍皇寺がそのはじまりです。先祖の精霊を迎え入れる六道まいりの風習が生まれたのは、このあたりが六道の辻であったため。六道とは地獄(じごく)、餓鬼(がき)、畜生(ちくしょう)、修羅(しゅら)、人間(じんかん)、天上(てんじょう)の六冥界のことで、葬送地の鳥辺野(とりべの)の入口に建つ寺はこの世とあの世との境目と考えられていたのです。

こんにち行われている六道まいりの順序は、まず境内で高野槙(こうやまき)を購入し、つぎに水塔婆(みずとうば)に戒名を書いてもらい、そして迎え鐘をつきます。ちなみに鐘はお堂のなかにあり、鐘楼の正面に出ている綱を引っ張って外から鐘をつくようになっています。鐘をつくと地蔵の前に水塔婆を手向け、高野槙の葉で水をかければ六道まいりの終わりです。

ところで本堂の後ろにある井戸は、『小倉百人一首』第十一番の作者、参議篁(さんぎたかむら)が冥界への入口にしたと伝わるもの。篁には霊力があり、夜になると閻魔大王(えんまだいおう)のもとで働いていたという話しが『今昔物語集』に残されています。

さて、六道珍皇寺かいわいの有名なお土産に「幽霊子育飴(ゆうれいこそだてあめ)」があり、これは江戸時代の噂話にちなむもの。寺の近くのある飴屋に、夜な夜な飴を買いに来る風変わりな女性がいました。ある夜、店の者がその後を尾けると、女性は墓地のなかに消えて行きました。すると土のなかから泣き声が聞こえ、掘り返してみるとそこには生まれたばかりの赤ん坊が。その女性は墓のなかで生んだ子どもを育てるために、幽霊となって飴を買いに来ていたのです。

現世と冥界とを結ぶ六道の辻あたりならではの昔ばなしは、上方(かみがた)の古典落語としても知られています。

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本尊は平安時代につくられた
薬師如来坐像(重文)。
非公開だが、六道まいりのときに開帳される


百人一首 永久の恋歌

平安人の恋のかたちに心を寄せる「百人一首 永久の恋歌」。
今回は、右近の名歌をご紹介します。

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わすらるる 
身をば思はず 
誓ひてし
人のいのちの 
惜しくもあるかな

右近
忘れられてしまうこの身は不幸とは思いません。ただ「心変わりしない」と神に誓ったあなたの命が、神罰により失われるのではないかと惜しまれることです。

神にかけて永久の愛を誓いながら、他の女性のもとに去って行った憎い人。捨てられ、忘れられてもしかし、相手の身を心配する女性の健気でひたむきな恋心を、三十一文字に切々とつづった右近(うこん)の第三十八番。

ところが、この歌には解釈がもうひとつあります。それは『伊勢物語』などと並び、平安時代を代表する歌物語である『大和物語(やまとものがたり)』に記されたもの。曰く、「神への誓いをないがしろにしたあなた様が、その罰を受けてお亡くなりになるかと思うととても残念で、お気の毒様でなりません」と、自分を捨てた相手へのたいへんな皮肉が込められているという解釈です。

前者がほんとうの気持ちだったのか、あるいは後者なのか、いまでは知る由もありません。いずれにせよ、右近が相手を愛していたことには違いなかったのでしょう。

右近は醍醐天皇の皇后、穏子(おんし)の女房をつとめた女性で、右近衛少将藤原季縄(うこんえのしょうしょうふじわらのすえなわ)の娘とされる人物。父親の役職名にちなんで右近と呼ばれていましたが、紫式部などほかの女房たちと同じく実の名前や生年月日はわかっていません。およそ、平安時代の中ごろを生きた女性といわれています。

彼女はかなり恋多き女性だったようで、『大和物語』には元良親王(もとよししんのう)、藤原師輔(ふじわらのもろすけ)、藤原朝忠(ふじわらのあさただ)、源順(みなもとのしたごう)といった青年貴族との恋物語がつづられています。

歌に詠まれた相手が誰だったのか。たいへん気になるところですが、同じく『大和物語』には藤原敦忠(ふじわらのあつただ)と書かれています。その敦忠は第四十三番の作者であり、その一首も後朝(きぬぎぬ)の別れの辛さを詠んだ切ない恋の歌。敦忠が歌を贈った相手は果たして誰だったのか。こちらも気になるところですね。


小倉山荘 店主より

真の贅沢はただ一つしかない。それは人間関係の贅沢だ

これは「星の王子さま」という有名なおとぎ話を書いたサン・テグジュペリの言葉です。

人間関係は自分の都合のよいことばかりではありません。好きな人もいれば、いやな人もいます。励まし合うこともあれば、ぶつかることもあります。さまざまな人生観や価値観をもった人が集まり、問題や矛盾に満ち満ちています。

しかし、社会は網の目のようなもので、一人では何もできません。誰もが多くの人と関わりあいながら生きています。互いにとって都合の良い関係を、互いが妥協しながら創ってゆく。それは、人と人とが関わりあう限り、最低限必要なことであるのかもしれません。

しかしそれは、突き詰めれば、単なる自己保身なのかもしれません。真の豊かさは愛情とか友情とか、人を思いやる気持ち、信頼の絆で結ばれた関係にこそあるのではないでしょうか。人と関わりあって生きることが人間であることの真の意味だからこそ、人間関係がただ一つの真の贅沢といわれるのでしょう。

報恩感謝 主人 山本雄吉