読み物

洗心言

2009年 仲春の号


有職のかたち

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有職のかたち
【輪違い】
円満を表わす輪を、いくつもつないだ輪違い。無限に広がる平和を意味することから、縁起のよい文様として貴ばれました。

時を超える言の葉

日本の歴史を振り返ると、それぞれの時代に、それぞれの分野で偉業をなした先人たちの至言に出会うことができます。それらは、数百年、千年の時を経たいまも私たちの心に響き、熱く、深く染みわたります。
「時を超える言の葉」。今回は名随筆として名高い『徒然草』の作者、吉田兼好の珠玉の言の葉をご紹介します。

「花は盛りに、
月は隈なきをのみ、
見るものかは」吉田兼好

吉田兼好は、鎌倉時代から南北朝時代にかけて生きた人物。本名は卜部(うらべ)兼好といい、その家系は卜占(ぼくせん)という占いにより吉凶判断を行なう神職をなりわいとしていました。

兼好は武士として後宇多(ごうだ)上皇に仕えていましたが、上皇の崩御にともない出家の道を選びます。そして比叡山などで仏法の修業を積み、各地を訪ね歩いた後、仁和(にんな)寺の近くの双(ならび)ケ丘に入庵。そこで兼好は数多くの歌を詠むとともに、随筆を書きつづります。それが清少納言の『枕草子』、鴨長明の『方丈記』とならび、日本三大随筆に数えられる『徒然草』。冒頭の言の葉はそのなかの一節で、大意は「桜は満開、月は満月だけがほんとうに良いのだろうか。けっしてそうではない」。

古びていたり、どこか欠けていたり、あるいは終わりを迎えようとしているものを、兼好はこよなく愛したといいます。それは不完全なものにこそ、見る者の心を動かす美しさが息づいていると考えていたためです。

満開の桜は、じつに美しいものです。しかしあまりにも華やか過ぎて、かえって情緒が感じられないのも事実。その反対に、盛りを過ぎた花を見ると、儚さや切なさが胸に迫ってくるものです。また、散りゆく花には、満開時にはどのような姿だったのだろうと思わせる、余韻があります。兼好は、けっして華やかではないものの内側に、しみじみとした味わいを見出していたのです。

兼好のこのような美意識は、無常観に由来するといわれています。若き者は老い、自然は移ろい、かたちあるものは必ず朽ち滅びる、つまりこの世に永遠はないという考え方です。兼好が世の無常を強く感じたのは、鎌倉幕府の滅亡から南北朝の争乱へとつづく、乱世に生きたためといわれています。そして、華やかではないものに趣きを見出した兼好の心は、後に「侘び」に受け継がれ、茶の湯などに影響を与えることになります。

そろそろ、桜の咲くころとなりました。満開の桜もいいものですが、今年は盛りを過ぎた桜を愛でてみてはいかがでしょうか。


平安京 今昔めぐり

「平安京今昔めぐり 
平野神社」

京都に数ある桜の名所のなかで、もっとも早く開花するといわれているのが平野神社の桜。
夜桜の見所としてつとに名高い神社は、平安京の造営とともに創建され、数多くの天皇に愛された歴史を受け継ぎます。

「色とりどりの桜が、
ひと月にわたり
匂い咲く古社」

平野神社が鎮座するのは、京都市の北西、衣笠山(きぬがさやま)を望む閑静なところ。金閣寺にほど近く、すぐ南には学問の神様として名高い北野天満宮がたたずみます。緑につつまれた社域は二百メートル四方とあまり広くありませんが、かつては現在の京都御所ほどの大きさを誇ったといわれています。

神社の創建は、桓武(かんむ)天皇によって平安遷都が行なわれた延暦(えんりゃく)十三年(七九四)のこと。かつて平城京の宮中に祀られていた祭神を遷座したのがそのはじまりです。その後、神社は正一位(しょういちい)という、祭神としては最高の位が授けられるまでに発展。天皇家との結び付きもいっそう強くなり、例大祭には時の皇太子が供物を奉献することが決まりとされたほか、円融(えんゆう)天皇以降、しばしば行幸が行なわれました。

ところが中世を迎えると、応仁の乱や天文法華(てんぶんほっけ)の乱などで社殿のほとんどが焼失。現在の本殿は江戸時代の寛永(かんえい)年間に、拝殿は同じく慶安(けいあん)年間に再建されたもので、本殿は国の重要文化財に指定されています。

さて、平野神社と桜の縁が結ばれたのは平安時代の中ごろ。花山(かざん)天皇が祭りを楽しむために、数千本の桜を境内に植えたのがその起源といわれ、江戸時代には「平野の夜桜」として、全国的な名声を馳せるまでになりました。現在、境内には約五十種、四百本もの桜が植えられ、その名も魁(さきがけ)桜を皮切りに三月中旬からつぎつぎと、四月の二十日ごろまで花が咲きつづきます。四月十日には桜祭りが行なわれ、平安装束に彩られた行列や演奏会などがくり広げられます。

平野神社の桜は珍種が多いことで知られ、純白の花をつける寝覚(ねざめ)桜、二つの実が妹背(いもせ)(夫婦)のように寄り添う平野妹背桜、数十枚の花びらからなる紅色の突葉根(つくばね)桜など、ここでしか愛でることのできない色とりどりの桜が、春の趣きを鮮やかに描きます。

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桜で名高い神社にふさわしく、
提灯には桜をかたどった神紋があしらわれている


百人一首 永久の恋歌

平安人の恋のかたちに心を寄せる「百人一首 永久の恋歌」。
今回は、権中納言敦忠の名歌をご紹介します。

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あひみての 
のちの心に 
くらぶれば
昔は物を 思はざりけり

権中納言敦忠
逢って契りを結んだ後の、こんなに悲しくてならない心にくらべると、逢わない前の気持ちなど 物思いをしていないのと同じようなものだなあ。

第四十三番に撰されたこの歌は、平安時代に数多く詠まれた後朝の歌のひとつ。当時のならわしでは、いくら強く愛しあっている男女でも、一日中ともに過ごすことはありませんでした。男性は夜に女性のもとを訪れ、朝になると自分の家へ帰るのが普通だったのです。後朝(きぬぎぬ)の歌とは、別れたのちに男性が女性に贈る歌で、できるだけはやく届けるのが礼儀とされていました。

この歌が詠まれたとき、権中納言敦忠(ごんのちゅうなごんあつただ)は、第三十八番の作者である右近(うこん)と恋愛関係にありました。右近と愛の契りを結ぶ前、つまり片思いのとき、敦忠はとても辛い思いをしていたのでしょう。

しかし恋が首尾よく成就して、喜んだのもつかの間、つぎは後朝の別れの辛さが敦忠を待ち受けていました。晴れて恋仲となったのに、夜が明けてしまうと離ればなれになってしまう二人。愛する人のもとを去らねばならぬ苦しさにくらべると、片思いの辛さなど取るに足らないもの。そんな熱烈な恋心が率直に、みずみずしく詠まれた名歌です。

権中納言敦忠は、平安時代の中ごろを生きた貴族。三十六歌仙に選ばれた名歌人として、さらには琵琶の名手としてその名を馳せました。敦忠はたいへんな美男子で人柄もよかったため、三十八歳で夭折したときは、誰もがその若過ぎる死を悼んだといいます。

ところで敦忠が亡くなったとき、世間は菅原道真の祟りにちがいないという噂で持ちきりになりました。父親の左大臣時平(ときひら)が道真を失脚させた張本人であり、その時平をはじめ、一族の多くが早死にしていたからです。もちろん、単なる偶然でしょうが、なんとも不思議な話しです。


小倉山荘 店主より

窮するもまた楽しみ

表題は古代中国の思想家、荘子の言葉です。道理を知る人は人生が順調なときはもちろん、苦しいときでも自らの境遇を楽しむという意味です。

逆境に置かれると、人はあらゆるものがつまらなく思えてくるものです。すると自分と他人を比較して、自分だけが辛い立場にあると感じてしまいます。しかしあくまでも、自分は自分です。自分と他人を比べて良いことや得になることなど、ひとつもありません。

そこで発想を転換して、その苦しさを「人ごと」と楽しんでみる。物語を味わうように、自らの苦境を客観的に眺めてみるのです。すると「自分だったらこうするのに」、「なんでそんなことで悩んでいるのだろう」といった知恵や気づきが得られるかもしれません。そして、そこから生まれた前向きな気持ちは、逆境を順境に変える大きな力になるはずです。

人生を楽しく生きるのも、辛く生きるのも結局は自分次第。荘子の言葉は、そんなことを改めて教えてくれているようです。

報恩感謝 主人 山本雄吉