洗心言
2010年 初夏の号
有職のかたち
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- 有職のかたち【蝶】
- 幼虫からさなぎ、そして艶やかな成虫へ。美しく変化していく蝶は神秘的な存在として尊ばれるとともに、不滅を現わす象徴として愛されました。
森羅万象 和のこころ
豊かな自然とはっきりとした四季に恵まれた日本。この国に生まれ、生きることで、日本人は古来より独特の自然観を培い、その感性は「環境の時代」といわれる今、未来を豊かに生きるための知恵として世界的に注目されています。
自然に向けられた先人の眼差しを、季節にあわせてご紹介する「森羅万象 和のこころ」。 今回は、生きとし生けるものを尊び慈しむ心について、お話を進めてまいります。
「草木国土悉皆成仏」
山々をつつむように新緑が色鮮やかに萌え、そろそろ田植えも近づいてきました。風薫り、草木がいきいきと茂る初夏は、この国がもっともみずみずしく美しい季節です。耳をそっと澄ませば、今を盛りといのちを謳歌する緑たちの息遣いがハーモニーとなって聞こえてくるかのようです。
先人は、草木を人間と同じ存在と見なしていました。草木だけでなく、それを育む大地や川の流れ、さらには石のようなものに至るまで。自然界に存在するあらゆるものが、やすらかに成仏できると考えていたのです。その考えを言葉で表わしたのが、冒頭の「草木国土悉皆成仏(そうもくこくどしっかいじょうぶつ)」です。
「草木国土悉皆成仏」は仏教の一宗派である天台宗から起こった考えを、平安時代の初期に安然(あんねん)という僧侶が言葉にしたものとされています。ところで、インドの仏典には「一切衆生悉有仏性(いっさいしゅじょうしつうぶっしょう)」とあり、人間のように心を持つ生き物、すなわち「衆生」は成仏できても、草木や国土は成仏できないと考えられていました。また、中国でも「花は無心、人は有情」というように、植物と人は異なる存在と思われていたようです。
では、なぜ日本人は、あらゆるものが人間と同じように成仏できると考えたのでしょうか。その理由は、縄文時代に芽生えたアニミズムにあるとされています。アニミズムとは生き物はもちろん、自然界のすべてのものに霊魂が宿るとする考えです。
魚や動物の狩猟、木の実の採集などで日々の暮らしを営んだ縄文人。彼らは自然から恩恵を受けるなかで自然と共生する心を養い、自然は人間のためにつくられたのではなく、互いに等しい存在であるという考えを強くしていきました。その考えは弥生時代に入っても、農耕を主とする日本人の心に受け継がれ、やがて仏教の成仏思想と融けあい、「草木国土悉皆成仏」という新たな考えを生み出すに至ったといわれているのです。
自然界のすべてのものは生きとし、生けるもの。その生命を守り、慈しむ「草木国土悉皆成仏」は宗教の枠を超え、環境問題を考えるうえで、私たちに大きな気づきを与えてくれているのではないでしょうか。
千二百年の言い伝え
京都を南北に貫くように、ゆったりと流れる鴨川。
初夏を迎えると川床が並び、得も言われぬ風情を醸し出す川はかつて、 ひとたび荒れ狂うと手の付けられない暴れ川として、時の最高権力者にも恐れられていました。
「鴨川の水、双六の賽、山法師」
長さ約二十三キロの鴨川のはじまりは、市内北部に位置する山あいの郷、雲ケ畑(くもがはた)の出合橋。ここで中津川と雲ケ畑川というふたつのせせらぎが出合い、鴨川となります。その後、いくつかの川と合流しながら大きな流れとなり、やがて伏見で桂川と出合い、最終的に淀川となります。
川の名前は河川法で鴨川と統一されていますが、京都では通常、高野川と合流する地点より上流を賀茂川、下流を鴨川と表わします。平安時代には鴨川と賀茂川の両方の表記がなされていたようです。鴨(賀茂)の名称は、平安京造営以前に鴨川流域を拠点としていた有力豪族の賀茂氏に由来するといわれています。
京都に美しい山紫水明を描き、水路や生活水源として、人々の暮らしに寄り添ってきた鴨川。その一方で、たびたび氾濫を繰り返す川として暮らしを脅かしてきました。平安時代の末期に絶大な権勢を誇った白川法皇は、自らの権力をもってしても意のままにできないものとして「鴨川の水、双六(すごろく)の賽(さい)、山法師」の三つを挙げました。賽は賭場の横行、山法師は比叡山の僧侶のことです。
鴨川の氾濫は二十世紀までつづき、昭和十年(一九三五)の大水害では三条大橋や五条大橋が流され、多くの犠牲者を出しました。その後、川の流れを調節する大規模な治水工事が行なわれ、第二次世界大戦後にようやく、現在のような穏やかな流れとなりました。
さて、川床(かわゆか)とともに、初夏の鴨川の風景として思い浮かぶのが鮎釣りです。五月末から六月上旬ころにかけて漁が解禁されると、日がな一日のんびりと釣り糸を垂らす太公望(たいこうぼう)たちの姿が多く見られるようになります。この時期には、鮎のほかにもアマゴやウグイなどの小魚も釣れるのだとか。眺めるだけでなく、釣りを楽しむのもおもしろいかもしれませんね。
百人一首 永久の恋歌
平安人の恋のかたちに心を寄せる「百人一首 永久の恋歌」。
今回は、相模の名歌をご紹介します。
恨みわび
ほさぬ袖だに
あるものを
恋にくちなむ 名こそ惜しけれ
- 相模
- あの人を恨み悲しんで、涙にくれて乾くひまもない 袖が朽ちてしまうだけでも耐えがたいのに、つまらぬ噂に私の名前まで朽ち果てるなんて、悔しくてなりません。
平安時代の宮中ではしばしば、歌合(うたあわせ)が催されました。それは二人の歌人が同じ題材で詠んだ歌の優劣を、判者が決めるという遊び。第六十五番に選ばれたこの歌は、後冷泉(ごれいぜい)天皇が主催した歌合で「恋」を題材に詠まれたものですが、その解釈にはつぎのような説があります。
まず、薄情な男を愛したために涙を流しつづけることの悔しさと、その情けない姿のために、自分の評判が落ちてしまうことへの嘆きが歌われているという解釈。そうだとすると、相模はたいへん負けん気の強い女性だったのでしょう。
その一方で、つれない男とわかっていてもあきらめきれず、愛されるのなら浮き名が立ち、後ろ指をさされてもかまわない、といった思いが込められているという解釈もあります。前者とはまったく異なる印象です。
相模(さがみ)は平安時代の中ごろを生きた女性。後朱雀(ごすざく)天皇の皇女、祐子内親王(ゆうしないしんのう)に女房として仕えながら、宮中で歌才を磨いていきました。相模という呼び名は、夫の大江公資(おおえのきんより)が相模(現在の神奈川県一帯)守の職にあったことにちなむもの。公資も優れた歌詠みのおしどり夫婦でしたが、後に離婚します。
ひとりになった相模は、第六十四番の作者である権中納言定頼(ごんちゅうなごんさだより)をはじめ、何人もの男性と恋愛遍歴を重ねていきます。そして、ふたたび祐子内親王に仕えるようになった相模は数多くの歌合に出席し、歌人としての存在感を際立たせていきました。
ちなみにこの歌を詠んだとき、相模は五十代の半ばだったといいます。離婚を経験し、恋愛経験を豊富に積んだ相模が三十一文字に託したのは、果たしてどちらの思いだったのでしょうか。今となっては知る由もありませんが、気になるところです。
小倉山荘 店主より
皐月、五月雨、水無月
旧暦の五月を「皐月(さつき)」といいます。初夏となり、ちょうど皐月が美しく咲くころですが、それには花の名前とは異なる意味もあります。「さ」は、さくらの「さ」と同様に田の神や稲作を表わし、皐月で田植えの月という意味になるのです。
もうしばらくすると梅雨がやってきますが、その別の呼び方である「五月雨(さみだれ)」の「さ」はやはり田の神や稲作を表わし、五月雨となって稲を育む雨を意味します。
旧暦の六月は「水無月(みなづき)」といい、この語源には諸説があります。田植えを終えて田んぼに水を張る月の「水張月(みずはりづき)」が転じたという説、皆で力をあわせて田植えを無事に終えたという意味の「皆仕月(みなしつき)」に由来するという説などが伝えられています。
このように、初夏に関する古語には田植えにちなんだものが多く、稲作がそれだけ日本人の暮らしと密接にかかわっていた証拠といえるでしょう。古きよき慣わしと稲作文化、豊かな季節感を未来に引き継ぐためにも、これからも一生懸命、米づくりに勤しんでまいります。
報恩感謝 主人 山本雄吉