読み物

洗心言

2011年 晩秋・初冬の号


四季彩の紋

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四季彩の紋【紅葉】
霜や冷たい雨に「揉み」出されるようにして色づくことから「もみじ」に。平安時代より、日本の晩秋を代表する彩りです。

春夏秋冬 楽然・楽趣

日本が世界に誇る伝統文化には、日本独特の自然観が息づいています。それは、ありのままの自然が織りなす趣を楽しもうとした、この国ならではの美意識。
自然を畏れ敬うことで、素晴らしい文化を生み出した先人のこころをご紹介する「春夏秋冬 楽然・楽趣」。今回は日本の伝統芸術についてのお話しです。

「花鳥風月に遊ぶこころ」

気候のおだやかな温帯に位置し、春夏秋冬の四季がはっきりとした国、日本。あたかも龍が横たわるように南北に伸び、山、川、海に恵まれた地形から、この国ではまた、ひとつの国にありながらも多彩な風景が形づくられてきました。季節の微妙な変化がもたらす動植物の移り変わりや、ひとつとして同じものはない環境の多様性にふれることで、日本人は自然と心を通わせる繊細な感性と美意識をはぐくんできたのです。
その発露として生み出された芸術が和歌でした。日本最古の和歌集『万葉集』には、四季折々の自然の風物を詠んだ歌が数多くとられています。平安時代に入ると、自然は素朴なものから風雅を感じさせるものへと高められていきました。そして、人々は文字だけではなく、絵筆を使って自然の風趣を表わしはじめたのです。

それは四季絵とよばれる絵画。春夏秋冬の風物を、季節の順に表わす四季絵はおもに屏風や襖などに描かれ、宮中、貴族や武家の邸宅の調度品としてたいへん好まれました。それは住まいのなかにいても、いつ何時も自然の風趣を感じていたいという、日本人の願いの現われだったのかもしれません。
和歌や四季絵を通して表わされた風趣は、ある言葉に集約され、日本の芸術に共通したテーマへと昇華していきます。その言葉は「花鳥風月」。四季折々の花や木々を愛で、鳥の歌に耳を傾け、風と戯れ、月と語る心は俳句、浮世絵、漆芸や陶芸といった工芸、衣装、さらには料理にいたるあらゆる芸術創作の源となりました。

月明かりに照らされる紅葉の錦が、神秘的な美しさを漂わせる晩秋。しかし、季節はいつも色鮮やかな風景を見せるわけではなく、また、つねに心地よい音や風に恵まれているわけではありません。
やがて来る冬は、あらゆるものが色を失い、冷たい風が吹きすさぶ時節。先人はそんな荒涼とした世界にも風趣を感じ取り、それを文字や形で表わすことにより、永遠に色あせることのない芸術作品を生み出してきたのです。
目に見えないもの、侘びしいものにも心を通わせる、日本人ならではの繊細な感性。花鳥風月に遊ぶこころを、いつまでも忘れたくないものです。


古都ごりやく散歩

鎌倉時代からの歴史を受け継ぐ大寺院であり、最近では京都屈指の紅葉の名所として注目を浴びる東福寺。
その塔頭のひとつ、正覚庵は「筆の寺」として地元の人々に親しまれ、毎年秋が深まると、あるご利益を求めてやって来る多くの人で賑わいます。

「筆供養で名高い
東福寺の塔頭」

東福寺の南正面に建つ六波羅(ろくはら)門。その門前にひっそりたたずむ正覚庵(しょうがくあん)は正応(しょうおう)三年(一二九〇)に、仏教の信仰に篤かった武将、伊達政依(だてまさより)によって創建されたと伝わります。「筆の寺」の通称で知られるようになったのは、江戸時代後期の文化年間のこと。天神様、すなわち書道や学問の神が祀られていることにちなみ、境内に筆塚が設けられたのが通称の由来と考えられています。小さな境内にはその筆塚のほか、二人の高名な画家の業績をたたえた筆塚と、昭和四十二年(一九六七)につくられた大きな筆塚が鎮座しています。

「筆の寺」の通称にふさわしく、毎年十一月二十三日には筆供養が行なわれます。これは使い古した筆や鉛筆、ペン、クレヨンなどあらゆる筆記用具を護摩火で焚きあげて供養するというもの。その際に煙を浴びると字が上達するといわれていることから、境内はご利益を求める多くの参拝客で賑わいます。護摩火とともに焚かれる筆記用具は全国から寄せられ、毎年かなりの数に上るそうです。また、境内の方丈は通常非公開ですが、筆供養の日は特別に門が開かれ、趣のある庭園を眺めることができます。

さて、大寺院である東福寺の塔頭(たっちゅう)は正覚庵を含めて二十五もあり、それぞれに見どころや特徴があります。雪舟寺(せっしゅうじ)とも呼ばれる芬陀院(ふんだいん)は水墨画の全盛を築いた画家、雪舟の作と伝わる庭園で知られる寺。同聚院(どうじゅいん)は定朝(じょうちょう)の父、康尚(こうしょう)の作とされる不動明王坐像を安置する塔頭。退耕庵(たいこうあん)は小野小町ゆかりの寺であり、龍吟庵(りょうぎんあん)は現存最古の方丈や赤砂を使った枯山水を擁する古刹。筆供養の前後に、これらの塔頭を巡り歩くのも楽しそうです。

もちろん、東福寺を訪ねるのもお忘れなく。例年十一月中旬から十二月初旬にかけて、広大な境内は紅葉の錦に染まり、なかでも本堂と開山堂とを結ぶ通天橋(つうてんきょう)から見下ろす渓谷の眺めは圧巻のひとことです。

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巨大な竹筆とともに筆記用具が焚かれる。
供養の前に稚児と山伏による神輿行列が
東福寺の境内を練りまわる。


百人一首 永久の恋歌

平安人の恋のかたちに心を寄せる「百人一首 永久の恋歌」。
今回は、皇嘉門院別当の名歌をご紹介します。

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難波江の 
芦のかりねの 
ひとよゆゑ
みをつくしてや 
恋ひわたるべき

皇嘉門院別当
難波江の葦の切り株の一節のような旅先の宿での ほんの一夜のかりそめの契りのために、我が身を 尽くして恋い続けなければならないのでしょうか。

旅先でのいちど限りの逢瀬、ゆきずりの恋が忘れることのできない激しい恋になってしまった辛さが、情感豊かに詠まれた第八十八番。もっとも、これは実体験が詠まれたものではなく、九条兼実(くじょうかねまさ)の屋敷で行なわれた歌合の席で「旅宿に逢ふ恋といへる心」を題材に歌われた一首と伝えられます。

一説に、難波江(なにわえ)のあたりには遊女が多くいたそうで、別当はそうした女性の立場に自分を置いて、かりそめの恋に涙する女心の哀れさを詠んだのではないかといわれています。

難波江(難波潟)は、現在の大阪市の中心部に位置していた入り江。かつて、そのあたりには水深の浅い海や、葦におおわれた湿地が広がっていたのだそうです。難波江は葦や澪標(みおつくし)などの言葉を導く枕詞で、古くから多くの歌に詠まれてきました。『小倉百人一首』にも、伊勢の第十九番、元良親王(もとよししんのう)の第二十番、そしてこの歌と、難波江をモチーフにした歌が三首も選ばれています。

皇嘉門院別当(こうかもんいんのべっとう)は平安時代末期を生きた女性で、本名や生没年などはわかっていません。崇徳院(すとくいん)の中宮、皇嘉門院に仕えたことから皇嘉門院別当と呼ばれていました。別当は宮中で家政をつかさどる女性の役職名です。別当は永きにわたって皇嘉門院に仕え、彼女の死とともに出家をしたといわれています。

歌才に秀でた別当はさまざまな歌合に出向き、優れた恋歌を数多く残します。そのなかに、こんな一首があります。

うれしきも つらきも同じ 涙にて 逢ふ夜も袖は なほぞかわかぬ(嬉しい時も辛い時も流すのは同じ涙。あなたとやっと逢えた今夜、私の袖は嬉し涙で乾きませんでした)。
初めて思いを遂げた恋、その喜びが詠みあげられた名歌です。


小倉山荘 店主より

月のこころ

晩秋の夜長、澄んだ夜空の月を愛で、物思いにふける機会も多いかと思います。
明月という言葉の「明」の字には、日と月が仲良く並んでいますが、月は確かにそれ自体が輝いているのではなく、太陽に照らされて輝き、この二つの自然の理は、私たちに大きな気付きを与えてくれます。

月は、太陽の光を受けて照り返すことによって、夜の世界をひそやかに照らし、私たちに闇の中にも、希望とやすらぎがあることを示してくれているように思います。

人間関係にも同じことが言え、相手の気持ちを受けて察し、我がこころとして相手を思いやることからそっと、その人のために何かをする「陰徳のこころ」が学べます。

秋の夜長、月をそのように見ることで、また違った美しさや趣を感じることができるのではないでしょうか。

報恩感謝 主人 山本雄吉