読み物

洗心言

2012年 盛夏の号


平安の色

image

平安の色【瑠璃(るり)】
金、銀などと並び仏教の七宝の一つに数えられる瑠璃。その色は、青のなかでも特に美しいものとして珍重されました。

歴史をつくった絆物語

人と人とが出逢い、触れあい、ときにぶつかりあいながら固く結ばれてゆく絆。先人が築き上げてきた歴史を振り返ると、そこにはさまざまな絆のかたちを見つけることができます。
今回の「歴史をつくった絆物語」は、関ヶ原でともに戦った武将、石田三成と大谷吉継との絆についてのお話しです。

「命をかけて朋友の
恩義に報いた心」

徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍とが熾烈な争いを繰り広げた関ヶ原の戦い。この天下分け目の合戦で、負け戦と知りつつ最後まで三成のために戦い抜いた武将がいました。その名は大谷吉継(よしつぐ)。越前敦賀の城主大名です。

二人は、ともに豊臣秀吉に仕えていました。知略に優れながらも満足な手柄をあげられず、しかし秀吉に目をかけられて順調に出世を重ねた三成。横柄な人柄も災いし、彼はつねに周りから疎まれる存在でした。一方の吉継は、おおらかで人情に厚い人物。性格的に正反対であったにも関わらず、二人は強い絆で結ばれていました。その間柄は、お互い相手のために頸(くび)を刎(は)ねられても悔いはない、「刎頸(ふんけい)の友」とたとえられたほど。そんな二人の絆のはじまりは、つぎのような出来事がきっかけでした。

ある茶会でのこと。大名たちが茶の回し飲みをする席で、吉継が口につけた茶碗を、つぎの大名はなかなか受け取ろうとしませんでした。そのころ吉継は重い病気におかされ、顔から膿が出るほどの状態でした。そのため同様の茶会では、ほとんどの大名が吉継の口をつけた茶碗を受け取るのを嫌がり、受け取っても飲むふりをしていたのです。

どうすることもできずに、ただ茶碗を持ってうなだれていた吉継。周囲が重苦しい雰囲気につつまれるや、突然三成が「喉が渇いた」といいながら吉継から茶碗を受け取り、茶を一気に飲み干しました。そんな三成の思いがけない行動に吉継は感激し、その恩義を終生忘れぬと誓ったのです。

それから二人は力をあわせて秀吉の天下統一を支えますが、やがて秀吉が死去。かわって徳川家康が天下取りに乗り出すと、三成は豊臣家を守るために家康を討つことを決意します。一方、吉継は家臣のことを考えて家康側につこうとしていました。そして、勝ち目のない戦を企てる三成の無謀さを諌め、さらに三成に人望がないことを率直に指摘し、考えを変えさせようとします。しかし三成の決意が揺るがないのを知ると、自分も家康と戦うことを決意。

そして迎えた慶長五年(一六〇〇)の関ヶ原の戦い。味方の相次ぐ裏切りによって三成の西軍がみるみる力を失うなかで、吉継は力を尽くして戦います。そして、朋友の恩義に、命をかけて報いたのです。


京のかたち

京都で一年中行なわれている、といわれるのが祭です。
世界的に有名な例祭から町内の小さな行事まで、さまざまな祭が京都のどこかで、毎日のように繰り広げられているのはどうしてなのでしょうか。

「それは、千年の都ならではの
豊かな文化」

京都に祭が多い理由として、つぎのようなことが考えられます。まず、神仏と交流するための祭礼や行事を主催する、神社や寺の数が多いため。つぎに御所が置かれ、祭のもととなる宮中行事が年中行なわれたため。そして、古くからたくさんの人が暮らしていたため。一口にいえば、京都が千年以上も都だったからにほかなりません。

一年のあいだに行なわれる祭の数は、およそ二百数十といわれています。そのなかには、一日では終わらず、何日もかけて繰り広げられる祭がいくつもあります。そのことを考えれば、祭が一年中行なわれているという言葉も、けっして誇張ではありません。ちなみに、江戸時代には祭の数だけで千数百もあったそうです。

さて、京都の夏というとすぐに思い出すのが祇園祭。平安時代からの歴史を受け継ぐこの祭は、先に挙げた理由のうち、特に三番目と深いかかわりをもっています。そもそも祇園祭は、疫神を鎮めるための御霊会(ご りょうえ)としてはじめられたもの。当時から人が多く住んでいた京の都では疫病がたびたび流行。人々はそれを、この世に怨みや未練を残して死んだ人の霊が、疫神となって引き起こすものと考えていました。そこで貞観(じょうがん)十一年(八六九)に疫病が大流行したとき、六十六本の矛(ほこ)を立てて疫神の退散を祈願する御霊会が行なわれ、それが後に祇園祭となったのです。祇園祭に似た祭は日本全国にありますが、それらはもちろん、京都の祇園祭にならってはじめられたものです。

ところで、祇園祭と並んで日本三大祭に数えられる東京の神田祭と大阪の天神祭も、疫病除けの祈願と深く結びついた祭。いずれも初夏から夏にかけて行なわれるのは、この季節がもっとも疫病が起こりやすかったから。また、疫病は人が多く住むところで猛威をふるったことから、夏祭は都市部で多く行なわれています。一方、収穫への感謝を捧げる秋祭は農村部で多く見られるもの。もっとも祭の多い京都では、そのどちらも存分に楽しむことができます。

image

最初に御霊会が行なわれた神泉苑。
かつての大内裏の南東に位置し
禁苑とされていた。


百人一首 四季の趣景

季節感あふれる歌をご紹介する「百人一首 四季の趣景」。
初夏の一首は、法性寺入道前関白太政大臣の名歌です。

image

わたの原 
漕ぎ出でて見れば 
ひさかたの
雲居にまがふ 沖つ白波

法性寺入道前関白太政大臣
ほととぎすが鳴いたその方角の空をじっと見つめてみると、もう姿はなく、ただ有明の月が沈みもせずに残っていることだ。

ホトトギスは五月の中ごろに中国などから日本にやってくる渡り鳥。大きさは鳩より少し小ぶりで、頭や背は灰色、翼や尾は黒褐色で、白い腹に黒い斑を持つのが特徴です。「テッペンカケタカ」という一風変わった鳴き声は、万葉の昔から夏の訪れを告げる風物詩として人々に愛され、多くの歌に詠まれてきました。

平安貴族たちも、ホトトギスの忍音(しのびね)(初音)を聴くのをたいへん風流なことと考えていました。ホトトギスは夜や明け方に鳴くという習性を持つことから、忍音を聴くために夜を徹することもしばしばだったそうで、その様子は『枕草子』にも描かれているほどです。後徳大寺左大臣(ごとくだいじのさだいじん)の第八十一番も、おそらく同様の状況で詠まれた一首。明け方になってようやく鳴いたホトトギスの姿を見ようと、声のした方へ素早く目を向けても、暁の空には月が浮かんでいるだけ。そんな初夏の情景が、とても素直な調子で歌われています。

ちなみに時鳥、不如帰、杜鵑、郭公、子規など、ホトトギスはじつに多くの漢字名を持ち、それも特徴のひとつとなっています。

後徳大寺左大臣は、平安時代の末期を生きた公卿の藤原実定(さねさだ)のこと。同じく左大臣であった祖父の実能(さねよし)が徳大寺左大臣と称されたので、祖父と区別するために後徳大寺と呼ばれるようになりました。『小倉百人一首』の撰者、藤原定家は従兄弟にあたります。

公卿として優秀であった実定は、和歌はもとより管弦にたいへん優れ、文化人としても名を馳せたといいます。その一方で、ある歌会で出された「無明(むみょう)の酒(煩悩を酒にたとえた言葉)」というお題を、「無名の酒」と勘違いしたことから、「名無しの大将軍」という不名誉なあだ名をつけられたというエピソードが伝えられています。


小倉山荘 店主より

喜びを人に分かつと喜びは二倍になり、苦しみを人に分かつと苦しみは半分になる

表題の言葉は、十八世紀から十九世紀にかけて活躍したドイツの詩人、クリストフ・A・ティートゲの言葉です。

喜びを分かち合える家族や友達がまわりにいると、その喜びはさらに大きくなります。しかし、「苦楽は生涯の道づれ」というように、順風満帆の人生にもかならず苦しいときがあります。そんなとき、誰かに悩みを聞いてもらうだけで少しは気持ちが楽になり、心も和らぎます。

人は、喜びや苦しみを分かち合うことで人とつながり、希望や安らぎ、明日への生きる勇気を得るのではないでしょうか。

幸せなときには、人に幸せを分けることを考えてみる。身近に不幸な人がいれば、ともに苦しんであげることを考えてみる。人の喜びや苦しみを、自分のことのように思って生きることができるようになれたら、本当に素晴らしいことだと思います。

報恩感謝 主人 山本雄吉