読み物

洗心言

2017年 晩秋・初冬の号


折々の吉兆

紅葉
秋の深まりとともに色づく紅葉。その葉の形が冠を思わせる鶏冠に似ていることから、立身出世に通じる縁起物とされました。

贈るこころ 伝えるすがた

古くから「贈る」ことを大切にしてきた日本人。感謝や祝福の気持ち、愛情や敬いの心を伝えるために、先人はこの国独自のさまざまな姿を生み出しました。

晩秋・初冬は、熨斗に関するお話しです。


お祝いごとを象徴する飾り、熨斗

めでたき時の贈り物に添えるものといえば、熨斗。今では白い紙の真ん中に水引があり、その結び目の右上に、琥珀色の何かを包んだ六角形の飾りを印刷したものが一般的ですが、そもそも熨斗とはどういったものかを知る人は、案外少ないのではないでしょうか。

最近では熨斗と熨斗紙を区別なく使う人が多いようですが、熨斗とは本来、贈り物に付ける紙を表す言葉ではありません。それは紅白の六角形の飾りを意味し、もっとさかのぼると、熨斗はその内側に包まれた何かを表していたのです。

その何かとはアワビ。かつて、日本の贈り物には熨斗アワビと呼ばれる、アワビの身を細くそぎ、薄く伸ばして干したものが添えられていたのです。

では、なぜアワビが贈り物に添えられるようになったのでしょうか。その理由として、つぎのようなことが挙げられます。現代でもそうですが、仏事など凶事の贈り物には、魚介や肉などの生臭物は敬遠されます。そこで慶事の贈り物には、凶事のそれではないことを相手に知らせる意味を込めて、紅白の紙に包んで水引で止めた熨斗アワビが添えられた、と考えられているのです。このような習慣が生まれたのは、鎌倉時代から室町時代にかけてのころとされています。

数多い魚介のなかでアワビが珍重されたのは、それが貴重な食べ物で、長寿や繁栄をもたらす縁起物と考えられていたから。熨斗アワビは古代から供物として神に捧げられ、現代でも伊勢神宮に熨斗アワビを献上する神事が受け継がれています。

ちなみに熨斗という言葉の由来については、「伸したアワビ」が転じたなど諸説があるようです。

時代の移り変わりとともに、熨斗アワビは黄色い短冊状の紙などに取って代わられました。そして、今では皆さまもよくご存知のように、熨斗アワビは絵となり、さらに熨斗というと多くの人が熨斗紙を連想するようになってしまいました。

現代の生活習慣では、贈り物に本物の熨斗アワビを添えるのは難しいことです。そのかわりに、小さな絵柄に込められた想い、日本人が遥かな昔から大切にしてきた心に考えを巡らせてみるのも、意味のあることといえないでしょうか。


春夏秋冬 古都のいぶき

四季折々の風趣に富む古都、京都。古くは平安時代から人々の心を彩ってきた自然の営みをご紹介する「春夏秋冬 古都のいぶき」。

晩秋・初冬は、山についてのお話しです。

それぞれ個性がある東、北、西の三つの山

盆地である京都は三方を山に囲まれたまちで、その三つは東山、北山、そして西山。ちなみに京都盆地は数万年前は湖の底だったそうで、三方の山から運ばれる土砂が長い時間をかけてうず高く積み重なることで、今のような陸地になったのだとか。

東山は、北は比叡山から南は稲荷山までつづき、俗に三十六峰といわれる峰々。そのなかには大文字で知られる如意ヶ嶽があり、山麓には南禅寺や清水寺、東福寺といった名刹がいくつも鎮座。

洛中から見わたせる山並みは四季折々の美しさを見せ、江戸時代後期の儒学者である頼山陽は、東山を望む鴨川べりの自らの書斎を「山紫水明処」と名づけました。

北山は、天狗伝説で名高い鞍馬山や京都府最高峰の皆子山(標高九七一m)、貴船や大原といった京の奥座敷、さらに鴨川の源流などを擁するところ。東山がなだらかとすれば、山並みが幾重にも重なって見える北山は奥深いといえるでしょうか。

そんな北山で古くから育てられてきたのが北山杉。真っ直ぐに伸びた木は表面を磨くと美しい光沢を放ち、室町時代から茶室などになくてはならないものとなりました。

西山は、火伏せの神として信仰を集める愛宕山から嵐山などを経て、長岡京をはじめとする乙訓地域まで連なる山並み。四季折々の趣があるなかで特に紅葉の印象が強く、これからの季節、西山三山と呼ばれる善峯寺、光明寺、楊谷寺は錦秋に染まります。

それぞれ魅力あふれる三つの山。東、北、西をぐるりと回るトレッキングコースが整備されていて、健脚自慢の人たちに人気だそうです。

京都の家の台所によくある「火迺要慎」のお札。火伏せの神、愛宕山の愛宕神社のもの


百人一首 心象百景

三十一文字に込められた心情をご紹介する「百人一首 心象百景」。

今回の一首は、良暹法師の第七十番です。

さびしさに
 宿を立ち出でて
 ながむれば
いづくも同じ 秋の夕暮

良暹法師
あまりのさみしさに耐えかねて庵を出てあたりをじっと見つめてみると、どこも同じようにさみしい、秋の夕暮れであるよ。

吹きぬける風が日ごとに冷たくなり、色づいた木の葉がはらはらと舞い散り、日が沈むのも日増しに早くなる秋は、一年のうちでいちばん寂しい季節。もし、毎日を孤独に過ごしていたら、その侘しさはひとしおです。

庵に独りで住んでいた良暹法師も、深まる秋に日々、言いようのない寂寥感を覚えていたのでしょう。そしてあるとき、もしかすると気を紛らわせられるかもしれないと、庵の外へ出てあたりを見わたしてみたものの、そこにあったのはやはり、うら寂しい秋の夕暮れ。

もっとも、秋の黄昏どきは趣あるもの。清少納言は『枕草子』の冒頭で風情を感じるときとして、「春は曙」「夏は夜」「冬は早朝」とともに「秋は夕暮れ」を挙げているように、日本人は古くから秋の夕暮れが醸すもの寂しさに、しみじみとした味わいを見出してきました。この歌の三十一文字からも、寂しさを風情として味わうような、どこか達観したような心情が伝わってきます。

良暹法師は、平安時代の中ごろを生きた人。出自などは明らかではありませんが一説に、母は第五十一番の作者である藤原実方の家に仕えた白菊という女性であったといわれています。

法師は比叡山で修行を積み、祇園の別当という地位に就き、後に大原に隠棲してしまいます。そして、晩年を紫野の雲林院という寺で過ごしたようですが、いつ没したのかなどについては不明で、歌人としての経歴も詳しいことは分かっていません。


小倉山荘 店主より

うらを見せ おもてを見せて 散るもみじ 良寛

表題は良寛がこの世を去る直前に、そのときの心境を親交のあった尼僧にあてて詠んだ句といわれています。

この句にはさまざまな解釈があり、最期を迎えた良寛の心持ちを知る由もないのですが、私はこの句の意味を裏も表も、つまり悪いことも良いこともすべてが自分であり、それを最後まで守り通す意志を詠んだのであろう、という説に共感を覚えています。

良寛は大変おおらかな人柄で庶民に慕われたといわれています。その人となりは、あるがままの自分を受け止める自己受容に始まるものではなかったかと思うのです。自分の至らぬ部分を受け入れる勇気は、他者の欠点もそのまま受け入れるという優しさにつながります。どのようなことが起ころうともただ相手を慈しみ、いつも微笑みを絶やさなかった良寛に人は心から惹かれたのだと思うのです。

秋が深まりました。今年も色づく木々と出逢えた喜びを噛み締め、良寛の心持ちに想いを馳せつつ、自らを振り返りたいと思います。

報恩感謝 主人 山本雄吉