読み物

洗心言

2018年 盛夏の号


四季折々 色づく心

朝顔
奈良時代に中国から伝わり、最初は青一色だった朝顔。江戸時代からさまざまな色の花が咲くようになり、大変な人気を博しました。

今を生きるやおよろずの魂

「八百万の神」というように、あらゆるものに人智を超えた力が宿ると考え、それらを畏れ敬ってきた私たち日本人。永き時を超えて、今もこの国に生きる「やおよろずの魂」をご紹介します。

動ぜず、朽ちず、人々の祈りを受けとめる磐座

今から二年ほど前、少年と少女の入れ替わりを題材としたアニメーション映画が、たいへんな人気を博しました。

時間軸を超える愛が綴られたドラマティックなストーリーはもとより、数々の美しい情景描写で多くの人々を魅了した劇中に、巨大な岩が現れる場面があります。その岩は、主人公の少女が巫女をつとめる神社の神体とされ、物語に重要な役割を果たすものでした。


この映画に登場するように、神社には大きな岩を神体、つまり神が宿るものとして祀っているところがあります。実際に、どこかで注連縄が張られた巨岩を見たという方も多いことでしょう。このように、大きな岩を対象とする信仰のかたちを磐座といい、それは日本の原始宗教のひとつとされる、古神道において始まったものとされています。

一説に古神道では、神はふだん遠いところにいて、人々にその力を乞われたとき、そのそばに降りて来るものと考えられていました。それゆえ、神に伺いを立てる際には神を呼び降ろすところが必要となり、その場所を巨岩としたのが磐座の起こりとされています。磐座の根底には自然崇拝、つまり自然界のあらゆる物事に神が宿り得ると考えた、この国ならではの信仰のかたちがあるのです。

古代の人々が大きな岩を、神を呼び降ろすところにふさわしいと考えたのは、その佇まいに人智を超えた力を感じ、深い畏敬の念を抱いていたためであることは想像に難くありません。同様に、数百の年輪を重ねた大樹も、神が宿るものとして人々に崇め奉られました。


かつての神社は、巨岩や大樹といった自然物を祀る場所でしたが、いつしかそこに神体を安置する本殿、供物を捧げる幣殿、拝礼を行う拝殿などが建てられるようになり、やがて現在に伝わる神社の形態が生まれたと考えられています。

人間とは異なる時間を生き、静寂の中でただ苔むす岩。その佇まいはいくら世界が変わろうとも、変わることのない威厳と畏怖を見る者に感じさせます。

悠久の時を超え、そこにあり続けてきた岩。それはこれからも、何事にも動じることなく、揺るぎない「何か」を求める人々の願いや祈りを受けとめながら、永久に朽ちることなく、そこにあり続けることでしょう。


京都のまるまるさん

京都にむかしからある、いろいろな「さん」付けの言葉のなかからいまもよく見かけたり、耳にすることの多いものやことをご紹介する「京都のまるまるさん」。

盛夏は、お地蔵さんについてのお話しです。

いつまでも、わが町を守ってくれるお地蔵さん

京都の通りのあちこちで、よく見かける小さな祠。その前で足を止めて手をあわせる人や、祠のまわりを掃除する人の姿は、京都の朝の日常風景となっています。なんでも京都市内の通りにある祠の数は、郵便ポストのそれよりも多いのだとか。

祠のなかにまつられているのは、もちろんお地蔵さん。赤い前かけをしてちょこんとたたずみ、どこか可愛げのあるお地蔵さんはそもそも地蔵菩薩といいます。


そのご利益は釈迦入滅から五十六億七千万年後に弥勒菩薩がこの世に現れるまでの間、すべての人々を救うという壮大なもの。地蔵菩薩が日本に伝わったのは奈良時代のことで、平安時代中ごろからは貴族たちの間で地蔵信仰がはじまり、それがやがて庶民の間にも広まりました。また、地蔵菩薩は閻魔大王の化身として、地獄で人々を救うという話もあることから、地蔵信仰はさらに人気を博しました。

お地蔵さんをまつる祠が道端に置かれるようになったのは、地蔵信仰が道祖神信仰と結びついたため。道祖神とは、地域の安全のために町外れなどにまつられる神のことで、とりわけ京都にお地蔵さんが多いのは、その素材となる石が豊富に採れたことに関係があると考えられています。

地蔵菩薩の縁日とされる新暦の八月二十四日ごろに、京都のあちこちで地蔵盆が開かれます。そのルーツは町内の安全祈願などを目的に、江戸時代にはじめられた地蔵祭。

この祭りは明治初期の廃仏毀釈で一度すたれてしまいますが、各地域の人々の尽力によって復活を遂げ、いまも京都の夏の風物詩となっています。

読経にあわせ、子どもたちが大きな念珠を回す数珠まわし。町内安全や無病息災を祈る、地蔵盆に欠かせない行事。


百人一首 心象百景

三十一文字に込められた心情をご紹介する「百人一首 心象百景」。

今回の一首は、天智天皇の第一番です。

秋の田の
 かりほの庵の
 苫をあらみ
わが衣手は 露にぬれつつ

天智天皇
秋の田の、刈り入れた稲の番をする小屋にいると、屋根をふいている苫の編み目が粗いので、私の袖は夜露にしきりに濡れることだ。

『小倉百人一首』の第一番を飾る、天智天皇の一首。歌に詠まれたのは、あらゆるものが寝静まった、ある秋の夜の情景。その舞台は、黄金色に実った稲がすべて刈り取られ、もの寂しい田んぼの隅にたたずむ粗末な小屋。そして主人公は、ひとりの農夫。


苦労の末に収穫した稲を、鳥や獣たちに荒らされないよう寝ずの番をしていたのでしょうか。

隙間風が吹き込む小屋にうずくまるようにして、稲を見張りながら長い夜を過ごしていた農夫。ただでさえ辛くてたまらないのに、いっそう侘しさを募らせるように着物の袖を濡らすのは、冷たい夜露。


農作業の辛さが切実に表されたこの歌は、天智天皇が農夫の身になり詠んだものといわれています。ところで『万葉集』第十巻に、「秋田刈る仮庵を作り我が居れば衣手寒く露ぞ置きにける」という詠み人知らずの一首があり、この歌は多くの農民に親しまれていました。そのため『小倉百人一首』の第一番は『万葉集』の歌をもとにつくられたもので、その作者は天智天皇ではないという説があります。


天智天皇は第三十八代の天皇。中大兄皇子と呼ばれていた皇太子時代の六四五年七月十日、中臣鎌足とともに大和朝廷の有力者であった蘇我入鹿を討ち、さらにさまざまな政治改革を進めて「大化の改新」を成し遂げました。天皇に即位したのは、白村江の戦いで唐と新羅の連合軍に敗れて数年経った六六八年のことで、その前年に都を飛鳥から近江に遷しました。

平安時代、天智天皇は皇統の始祖と位置付けられて朝廷や貴族の尊崇を集め、そのことから『小倉百人一首』の冒頭に天智天皇の歌が置かれたと考えられています。


小倉山荘 店主より

行いは思いの花であり、喜びや悲しみは、その果実である 
ジェームズ・アレン

春に土に降りた種が、夏に色鮮やかな花を咲かせ、やがて豊かな実を結ばせる。このような植物の生き方に、人間の生き様を重ねたのがイギリスの思想家、ジェームズ・アレンでした。

生涯を通して、人生をいかに生きるかを問い続けたアレンは、人間にとっての種を「思い」と考えました。そして、「自分の内側でめぐらす思いこそが、私たちの人生や環境を決める。この確かな法則に従って、私たちの人生は創られている」という持論を展開し、その考えを分かりやすく、印象的にあらわしたのが表題の言葉です。

人は、自分の人生を左右する運命を、ともすれば見えざる力によって与えられるものと考えがちです。しかし、アレンの考えを吟味すると、運命は自らの意志で創造するものに過ぎないことに気付かされます。

人生の節目、節目でどのような花を咲かせるのか。そして、いつか得る果実が甘いのか、それとも酸っぱいのか。すべては、自分の思いにかかっているのです。

報恩感謝 主人 山本雄吉