読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【18】新元号と大伴旅人


新元号は宴会のおかげ?

新元号の典拠は現存する日本最古の歌集『万葉集』でした。
二十巻からなる大部の歌集ですが、
「令」と「和」が採られたのは巻五にある
「梅花の歌三十二首」の序の部分で、漢文で書かれています。

 

序には大伴家持(おおとものやかもち 六)の父、
大伴旅人(たびと)が聖武天皇の時代の
天平二年(730年)正月十三日に自邸で観梅の宴を開いたとあります。
このとき旅人は太宰帥(だざいのそち=大宰府長官)を務めていました。

 

大宰府は地方行政のほかに沿岸警備や外交も担っていましたから、
中国原産の梅と梅を愛でる文化の輸入もここが窓口だったのでしょう。
花見という風雅な遊びを始めたのは
旅人ら九州北部の官人たちだったのかもしれません。

 

「梅花の歌三十二首」にある旅人の歌はこの一首。

 

わが園にうめの花散る ひさかたの天(あめ)より雪の流れ来るかも
(万葉集巻五 822 主人)

わたしの庭に(白い)梅の花が散る
空から雪が流れてくるのだろうな

 

旅人はほかにも梅と雪の取り合わせで詠んだ歌があり、
漢詩の一節にも「梅雪乱残岸」(『懐風藻』所収)と書いています。
白梅が雪のように古びた岸に乱れ散っているという意味でしょうか。
白梅を雪に例えるのは漢詩ではめずらしくないそうです。

 

いずれにしても旅人が渡来後間もない梅を愛でる宴を開き、
「時に初春の令月(れいげつ)気淑(よ)く風和(やは)らぐ」と
序文に書き遺さなかったら、
新元号「令和」は誕生しなかったかもしれません。


手本どおりの宴

上記の宴会では三十二人が和歌を詠みましたが、
晋(しん)の時代の中国では永和九年(353年)三月三日、
四十一人が参加して詩を賦す(=作る)宴がありました。
蘭亭曲水(らんていきょくすい)の宴と呼ばれるものです。

 

この宴で作られた詩を一巻にまとめた際に
書家として高名な王羲之(おうぎし)が序文を書いており、
『蘭亭序(らんていじょ)』の名で日本にも伝わっていました。

 

「梅花の歌三十二首」の序はおそらくそれに倣ったもの。
詠まれたのが歌か詩かの違いはありますが、
観梅の宴じたいが中国の風習を手本にしたものですから、
序をつけることでより中国風になると考えたのかもしれません。

 

旅人の宴の二十年後の天平勝宝二年(750年)三月三日、
息子家持は赴任中の越中で曲水の宴を催しました。

 

漢人も筏浮かべて遊ぶといふ 今日そ我が背子花かづらせな
(万葉集巻十九 4153 大伴宿祢家持)

 

漢人(からひと=中国の人)も筏(いかだ)を浮かべて遊ぶという
今日こそ友人たちよ髪に花飾りをつけなさい

 

曲水の宴は聖武天皇の時代に行われたのが最古の記録だそうですから、
旅人の観梅と同じく、家持の曲水の宴もまだ伝来したばかり。
親子ともども当時最新の風雅を楽しんでいたのです。

 

※「曲水の宴」についてはバックナンバー《15》をご覧ください。