読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【35】公任の屏風歌


姫君の輿入れ

藤原道長の栄華を描いた長編『栄花物語』の
「かゞやく藤壺」の巻はこのように始まります。

 

大殿の姫君十二にならせ給へば 年の内に御裳着ありて
やがて内に参らせ給はむと急がせ給ふ

道長の長女彰子(しょうし/あきこ)が数え年で十二歳になったので、
年内に裳着(もぎ=成人の儀式)を終え、
そのまま内裏に入らせようと急がせたと。

 

これは長保元年(999年)のことでした。道長邸では
彰子を一条天皇のもとに入内(じゅだい)させる準備に
とりかかっていたのです。

 

同年十月二十一日の道長の日記には
「四尺屛風和歌令人々読」と書かれています。
準備の一つとして高さ四尺の屏風をしつらえ、
人々に屏風歌(びょうぶうた)を詠ませたという記録です。

屏風絵を任されたのは飛鳥部常則(あすかべのつねのり)という
当代一と謳われた人気絵師。
そこに屏風歌を書き込んだのは三蹟(さんせき)の一人
藤原行成(ゆきなり)という豪華さでした。

 
歌を依頼された人々は公卿、
つまり国政を預かる上級貴族たちでした。
かれらを完成した屛風の前に集め、
だれがどの絵の歌を詠むのかを決めたのが上記の二十一日。

日記の二十七日の条(くだり)に各人が歌を持ち寄り
道長が礼として酒をふるまったとあるので、
制作期間は七日と定められていたのでしょう。


和歌提出をしぶる公任

当時右衛門督(うえもんのかみ)だった
藤原公任(きんとう 五十五)も歌を依頼された一人でした。

『今昔物語集』によると、公任が担当したのは四月の藤の絵。
しかし期日になって皆が顔を揃えたとき公任はおらず、
道長からの度々の催促でようやく参上したものの、
なかなか歌を読み上げようとしませんでした。

つまらぬ歌なら献上しないほうがまし、
駄作は末代までの恥などと言って抵抗するのをなだめすかし、
しぶしぶ懐から取り出した歌を道長が読み上げると

 

紫の雲とぞみゆる藤の花 いかなる宿のしるしなるらむ
(拾遺和歌集 雑春 右衛門督公任)

紫色の雲のように見えるあの藤の花は
いったいどのような家の目印なのでしょう

 

一同はこの歌を褒めたたえ、
公任はほっと胸をなでおろしたといいます。

紫の雲は瑞兆とされます。
そして咲き誇る藤の花は藤原家の繁栄を象徴するもの。
道長としても満足のいく一首だったでしょう。

この屏風を嫁入り道具の一つとして、
長保元年十一月一日、彰子は入内しました。

 

『栄花物語』はこのように記しています。

 

女房四十人 童(わらは)六人 下仕(しもづかへ)六人なり
いみじう撰り調へさせ給へるに 形心をば更にもいはず
四位五位の女といへど(中略)物清らかに
容姿よきを撰らせ給へり
(栄花物語)

彰子の身の周りの世話をするお付きの者たちは
見た目と思慮分別を基準に厳選し、
侍女たちも容姿端麗な者を選んだというのです。

 
道長は彰子の入内後も次々と才女たちを送り込んでいます。
紫式部(五十七)や和泉式部(五十六)などは
その最強メンバーといったところでしょう。