読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【39】万葉の桜


山桜を愛でる

『万葉集』には梅の歌が多く、
桜を詠んだ歌は少ないと言われています。
たしかに梅の歌百十八首に対して桜は四十四首ですから、
三分の一程度しかないことになります。
 

しかし当時桜に人気がなかったわけではなく、
山部赤人(やまべのあかひと 四)はこのように詠んでいます。

 
あしひきの山桜花 日並べてかく咲きたらばいたく恋ひめやも
(万葉集巻第八 1425 山部宿祢赤人)

山桜の花が何日もこのように咲くのならば
これほどまでに恋しくはないだろうに

 
開花期間の短さを嘆くのは後の時代の心情と同じですね。
赤人が詠んだのは山桜でしたが、次の歌もまた山桜。

 
暇あらばなづさひ渡り 向つ峰(を)の桜の花も折らましものを
(万葉集巻第九 1750 よみ人知らず)

時間があったら水をわけて渡って行って
向こうの山の上の桜の花を手折りたいのだが

 

奈良から難波に向かう途中の官人が龍田山の桜を詠んだ一首。

日本人がかつて愛でていた桜は上記のようにヤマザクラ(山桜)でした。
奈良の吉野山、京都の嵐山は古くから名所として知られていたそうです。


奈良は八重桜の本場

奈良の知足院(ちそくいん)に
ナラノヤエザクラ(奈良八重桜)と呼ばれる桜があるそうです。

これはカスミザクラ(霞桜)の八重咲きで、山桜に近い品種。
山野に自生していたのですが、
ほかの山桜より遅く咲くためか庭などに好んで植えられ、
やがて奈良の名物になっていったと考えられています。
百人一首の伊勢大輔(いせのたいふ)の歌はそれを反映したもの。

 

いにしへの奈良の都の八重ざくら けふ九重ににほひぬるかな
(六十一 伊勢大輔)

昔の奈良の都に咲いていた八重桜が
今日は九重(ここのえ)で美しく輝いていることです

 

一条天皇のもとに奈良の八重桜が献上され、
その受け取り役となった伊勢大輔が即興で詠んだ一首です。
万葉時代から二百年ほど経っても、
まだ「八重桜と言えば奈良」だったようです。

※八重桜については旧バックナンバー【190】をご覧ください。