読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【53】法師らしからぬ法師


高砂の松の下で

良暹(りょうぜん 七十)は百人一首でも屈指の難読人名。
「暹」が見慣れない文字だからですが、
よく見ると「日」と「進」を合わせたもので、
昇る太陽、日の出をあらわす文字なのだそうです。

この良暹、生没年を含め生涯はほとんどわかっていません。
しかし『古今著聞集(ここんちょもんじゅう)』は
その人となりが窺えるこのようなエピソードを伝えています。

 
橘俊綱播磨国へくだりけるに 高砂にて各(おのおの)歌よみけるに
大宮先生義定といふものが歌に

われのみと思ひこしかど 高砂のをのへの松もまた立てりけり

人々感じあへり 良暹其の所にありけるが
女牛に腹つかれぬるかなといひけり
(古今著聞集 巻第五)

 
橘俊綱(たちばなのとしつな)は藤原道長の孫にあたる人物。
播磨に赴任する際に高砂(たかさご)に立ち寄り、
名所だから皆で歌を詠もうということになったようです。

 
上記「われのみと」の歌を詠んだのは藤原義定(よしさだ)という
先生(せんじょう=東宮坊の武官)でした。

こんな境遇は自分だけと思ってきたが、
高砂の尾根の松も(苦難に耐えて)立っていたよと。

 
俊綱は正妻の子でなかったため養子に出されたといわれ、
道長の孫でありながら地方官を歴任するという、
下級貴族の生活を送っていました。
義定の歌はそんな俊綱の境遇を配慮して詠まれたと考えられます。

 
良暹のコメントが難解ですが、
雄牛ならともかく雌牛に腹を突かれた、
意外な人物がよい歌を詠んでおどろいたというのでしょう。
明らかに上から目線ですね。


律儀なのか気まぐれなのか

橘俊綱は歌人として知られ、
伏見の別邸でたびたび歌会を催していました。
良暹はその常連の一人だったので、
播磨に赴任する俊綱を高砂まで見送っていったのでしょう。

 

律義で人づきあいがよさそうですが、
歌人仲間の賀茂成助(かものなりすけ)は
こんな苦情を歌に詠んでいます。

 
けふは君いかなる野辺に子の日して 人のまつをばしらぬなるらむ
(後拾遺和歌集 春 賀茂成助)

今日 あなたはどこの野辺で子(ね)の日の松を引いて
わたしが待つのを忘れているのだろう

 
良暹から子の日の遊びに誘われたのにその後の連絡がなく、
とうとう日が暮れてしまったというのです。

 
またあるとき良暹を訪問した藤原孝善(ふじわらのたかよし)は、
仲間を連れて花見に出かけていると聞かされました。
いつもは誘ってくれるのに…。

 
春霞へだつる山のふもとまで 思ひもしらずゆく心かな
(後拾遺和歌集 春 藤原孝善)

春霞がへだてるように(わたしをへだて) 遠く山の麓まで
(花を見に)思いがけずも行ってしまったあなたの心がわかりません
 
忘れっぽいのか気まぐれなのか…、
弁明や反論が伝わっていないので理由は不明。
しかし良暹に対する苦情や恨みを詠んだ人はほかにもおり、
あてにならない人物だったのは間違いなさそうです。