読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【67】村雨


村雨は新しい歌語?

寂蓮(じゃくれん 八十七)の歌などにある村雨(むらさめ)は
にわか雨、通り雨のことです。
「むら」はおなじものが集まっていたり、
ひとまとまりになっている状態を指しますから、
村雨は漢字なら「叢雨」と書いてもよいはずです。

それはさておき、
古い時代の和歌に村雨という言葉は少なく、
『万葉集』には次の一首しか見当たりませんでした。

庭草に村雨降りて こほろぎの鳴く声聞けば秋づきにけり
(万葉集巻第十 2160 よみ人知らず)

庭の草ににわか雨が降ってこおろぎの鳴く声を聞くと
秋らしくなった(と感じられる)よ

勅撰和歌集を見ても村雨が詠まれているのは
『千載和歌集』や『新古今和歌集』以降なので、
奈良・平安時代には歌語として定着していなかったのかもしれません。

 

「むら」だけなら平安時代の
遍昭(へんじょう 十二)にこのような一首があります。

からにしき枝にひとむらのこれるは 秋のかたみをたゝぬなるべし
(拾遺和歌集 冬 僧正遍昭)

唐錦(のような紅葉)が枝にひとかたまり残っているのは
(去っていった)秋の形見(の衣)を裁たなかったからだろう

「ひとむら」は「一叢」で、冬になっても
紅葉が一枝だけ散らずに残っていたのでしょう。

 


村雀は村の雀ではなかった

平安時代後期の源俊頼(としより 七十四)は
雲のかたまりを「むらくも」と詠んでいます。

むら雲や月のくまをばのごふらむ 晴れゆくたびに照りまさるかな
(金葉和歌集 秋 源俊頼朝臣)

叢雲(むらくも)が月の曇りを拭うのだろう
晴れてゆくたびに明るくなっていることだ

横切っていく雲が月を磨いているようだというのは
いかにも俊頼らしい斬新な発想です。「晴れゆくたび」は
雲が何度も月を横切ったことを表しています。

 
雲や雨ではない、生きものがまとまったものは「群」。
西行(八十六)はこのように詠んでいます。

雪うづむ園の呉竹折れふして ねぐら求むる村雀かな
(玉葉和歌集 冬 西行法師)

雪に埋もれた庭の呉竹(くれたけ)が折れ伏して
群雀(むらすずめ)はねぐらを探していることだ

竹が雪の重みで倒れ、雀たちの居場所がなくなってしまったのです。
この雀たちは村の雀ではなくて、群れている雀です。

「叢雲」や「群雀」という表記も見かけますが、
和歌では「村雲」「村雀」が多数派です。
「村」は家という「同種のものの集合」をいうので、
意味の上で共通しているからなのでしょう。

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《参考》『拾遺和歌集』に「庭草に」の歌の三句を「ひぐらしの」
 五句を「秋はきにけり」としたものが人麻呂歌として載っています。