読み物

続『小倉百人一首』
あらかるた

【82】消える木の伝説


見えていたはずなのに

遠くからは見えているのに、
近づくと見えなくなってしまうという不思議な木。
その木の名は帚木(ははきぎ)といい、
帚(ほうき)のような姿をしていたといわれます。

ほんとうに木が消えたのかはともかく、
消える木の伝説は都で広く知られていました。
坂上是則(さかのうえのこれのり 三十一)は
このように詠んでいます。

そのはらやふせやに生ふるはゝきぎの 有りとは見えてあはぬ君かな
(新古今和歌集 恋 坂上是則)

園原の伏屋に生えている帚木のように
いるのがわかっていても会えないのがあなたなのですね

帚木があったのは現在の長野県下伊那郡。
園原川の近くにその残骸とされる檜(ひのき)の根元が残っており、
是則の歌の歌碑が建てられています。

 
帚木は『源氏物語』の巻名の一つでもあります。
その由来は源氏と空蝉(うつせみ)との歌の贈答。

帚木の心を知らで 園原の道にあやなく惑ひぬるかな
(源氏物語 帚木 源氏)

帚木のようなあなたの心を知らず
愚かにも園原の(恋の)道に迷ってしまったことです

返し

数ならぬ伏屋に生ふる名の憂さに あるにもあらず消ゆる帚木
(源氏物語 帚木 空蝉)

取るに足らない卑しい生まれの情けなさにいたたまれず
帚木のように消えてしまうほかないのです

再会を拒み、会えそうで会えない空蝉を
見えているのに消えてしまう帚木にたとえたのが源氏の歌。

空蝉の返歌にある「伏屋」は園原の地名ですが、
普通名詞の「伏屋」は廂が地面に触れてしまうほど小さい家のこと。
空蝉は地名の伏屋とおのれの育ちの貧しさを
重ねて詠んでいるのでしょう。


消えない帚木

《詞書》
伯耆(ははき)の国に侍りけるはらからの音し侍らざりければ
便りにつかはしける

ゆかばこそあはずもあらめ 帚木の有りとばかりは音づれよかし
(後拾遺和歌集 雑 馬内侍)

(わたしが)行かないのだから会えるはずもないのだけれど
帚木のように(会えなくても)元気でいると知らせておくれ

 
馬内侍(うまのないし)が伯耆(ほうき=現在の鳥取西部)にいる
同胞(はらから=同じ母親から生まれた兄弟姉妹)に宛てた歌。
会えないけれど確かにいるよと言ってくれというのです。
「伯耆」と「帚木」に「母」を掛けています。

次の源俊頼(みなもとのとしより 七十四)も「母」に掛けたもの。

 
《詞書》
物申しける人の母に申すべきことありてまかりて尋ねけるに
たびたびなしと申してあはざりければ

はゝきゞはおもてふせやと思へばや 近づくまゝにかくれゆくらん
(続千載和歌集 誹諧 俊頼朝臣)

帚木は恥ずかしいと思うからこそ
近づくほどに隠れていくのだろう

「物申す」は男女が交際すること。
「おもて伏せ」は恥ずかしがることで「伏屋」との掛詞です。
居留守を使って会ってくれない母親を帚木にたとえていますが、
「帚木」が「母聞き」との掛詞だとすると、
相手の女性が母親に知られるのを恥ずかしがって会わせなかったことに。

それより興味深いのは下(しも)の句です。
俊頼は近づくにしたがって隠れていくと言っており、
忽然と姿を消すとは言っていません。

たとえば、高い垣根の向こうに家が見えていたとします。
しかし垣根に近づいていけば家は垣根に隠れて見えなくなります。
同じように帚木の手前に峠などがあれば、
近づくほどに帚木は峠に隠れていくでしょう。
俊頼はなぜ帚木が消えるのか、知った上で詠んでいたのです。